「桃の雫」記述の経緯
松尾芭蕉が唐招提寺で詠んだ句「若葉して御めの雫ぬぐはばや」の新解釈を支援する俳句として、京都伏見の西岸寺での句「我がきぬにふしみの桃の雫せよ」を本『迦陵頻伽 奈良に誓う』に書きました。そして西岸寺の句を元にして、伏見の松本酒造さんが雫の文字を滴に変えて「桃の滴」という清酒を発売したことを、当最新情報に書きました。
島崎藤村にもある『桃の雫』
実は島崎藤村にも『桃の雫』という随筆があります。島崎藤村全集の第15巻に収められています。題名が『桃の雫』であっても、芭蕉の西岸寺の句について書いているわけでありませんし、お酒について述べているわけでもありません。その随筆を読んでみて、題名の根拠を探したのですが良く分かりませんでした。
根拠に近いものとしては「ことしの夏のことを書き添へるつもりで、思はずいろいろいろなことを書き、親戚から送つて貰つた桃の葉で僅かに汗疹(あせも)を凌いだ」という藤村の文章がありました。
推測しますに、桃の葉を乾燥させて湯船に入れて入浴し、お湯の雫を桃の雫と感じたのかもしれません。もしくは桃を丸かじりする時に雫がポタポタと沢山落ちてくるように、いろいろなことを書いたということから題名を付けたのかもしれないと思いました。
藤村の『桃の雫』の一文「第三の眼」
興味深いことに、偶然だとは思いますが、随筆『桃の雫』の中に「第三の眼」という一文がありまして、唐招提寺の鑑真和上のことが書いてあります。ちょっと長くなりますが、印象に残った部分を引用いたします。なお、翁とは芭蕉のことです。
「古い佛像に、眼を三つ具へた相好(さうがう)のものがある。
・・・中略・・・
愚かなものでも、第三の眼を見開くことが出來る。だんだんこの世の旅をして、いろいろな人にも交つて見るうちには、いつの間にかあの眼で物を見ることが出來るやうになる。あの眼は、いつたい何を見る眼か。
・・・中略・・・
招提寺に翁は鑑眞和尚の像といふものを拜んだ。翁が『雫ぬぐはばや』と吟じたほど心を打たれたといふのも和尚の眼であるが、この眼がまた、たゞの眼とも思はれない。
・・・中略・・・
鑑眞和尚の傳記によると、實際は日本への航海の途中に失明したものでもなく、和尚がこの國へ向けて出發する以前に、この準備を心掛ける頃にすでに盲目の人であつたといふことである。おそらく、そのまぶたのぬれない時はなかつたほど、涙の多い生涯を送つた人とも思はれるが、一方にはその盲目が反つて物を明かに見る別の眼を見開かせたであらう。」
鑑真和上坐像を拝した時、多くの人はそのつぶった目から盲目を思うでしょう。藤村もそう思いながら、一方で鑑真和上の第三の眼、心眼を感じ取っていたのでした。