唐招提寺の開山忌
唐招提寺の開祖・鑑真和上は763(天平宝字7)年5月6日に亡くなりました。偉いお坊さんが亡くなることは示寂とか遷化と言うようですが、分かり易く亡くなりましたと表現させていただきます。当時は旧暦だったため、現在は命日を1ヶ月ずらして6月6日とし、その日に命日法要を行っています。唐招提寺を開いた、すなわち開山した鑑真和上の法要ですから開山忌と言われています。
御影堂の一般公開
開山忌に合わせて、日頃公開されていない御影堂が一般公開されます。今年(2011年)は6月5日(日)から7日(火)の3日間で、時間は9:00から16:00までです。 国宝の鑑真和上坐像を参拝することができますし、東山魁夷さんの素晴らしい襖絵も拝観できますので、関心のある方はご覧になってみてはいかがでしょう。昨年は平城京遷都1300年祭だったため唐招提寺の開山忌にも大勢の人が来て、入場まで1時間以上も待たなければなりませんでした。しかし今年は、唐招提寺の開山忌が素晴らしいと人々に伝わっても、そこまでは混まないでしょう。
開山忌に思うこと
私はほとんど毎年、開山忌に唐招提寺へお参りしています。そしていつも、かなり長い時間、鑑真和上の坐像の前に座って和上を仰ぎ見ています。まじまじと見つめ思い巡らすことは、和上の静かに閉じた眼(まなこ)であり、若葉であり、雫です。燦々と照る太陽の光が青葉を通して射して来る情景が目に浮かびます。木漏れ日がキラキラと雫のように降り注いでいるのです。
仏教には甘露という言葉があります。近年では甘く美味しい水と解釈され、転じてお酒の意味で使われることが多いのですが、もともとは天から降ってくる、飲んだら死なない霊水、つまり仏の教えや功徳を意味していました。芭蕉は甘露という言葉の本当の意味を知っていて、伏見西岸寺で「我がきぬにふしみの桃の雫せよ」、奈良の唐招提寺で「若葉して御めの雫ぬぐはばや」と俳句を詠んだのでしょう。鑑真和上が失明するほどの労苦をものともせず日本にやって来て、多大の功徳を施して下さったことに対して、芭蕉は感動に打ち震えたのだと私は思います。
仏教者にとって、また仏教を知る芭蕉のような人間にとって、雫とは涙という意味ではなく、甘露であったのだと思うのです。
甘露についての新しい気づき
芭蕉の俳句における「雫」の意味、および東大寺お水取りの祈りの言葉に出てくる「甘露の浄水」という言葉については本『迦陵頻伽 奈良に誓う』で詳しく述べましたが、最近、「甘露」について新たな気づきがありました。
玄奘三蔵法師が唐から印度へ仏典を求めて旅をしていった時のことが書かれている本『玄奘三蔵』(慧立/彦悰(えりゅう/げんそう)著、長澤和俊訳)のページをパラパラとめくっていましたら、甘露という言葉が目に飛び込んできました。
玄奘三蔵法師が印度行きの強い決意を述べるくだりで、「お経の甘露を東方の国々に広めたい」という内容の言葉が書かれていました。お経の教え、仏様の功徳という意味が甘露にはあり、仏教者にとってそれは普通に使われていた言葉なのでしょう。私は芭蕉の詠んでいる雫は甘露のことであり、仏の教えであり、仏の教えを実践した偉人の功徳であるという思いを、さらに強くしました。