森鷗外は帝室博物館総長

明治・大正期の文豪の森鷗外は軍医総監であったことでも有名ですが、陸軍の仕事を退いた後、1917(大正6)年に帝室博物館(現在の奈良国立博物館などを含む)の総長にも就任しています。そのため、奈良国立博物館で行われる正倉院御物の虫干しに立ち会う目的で1918(大正7)年から4年の間、毎年奈良へ来て1カ月ほど滞在しました。

今に残る「鷗外の門」

総長として奈良へ来ている時の宿泊場所は、奈良国立博物館の広い敷地の東北隅にある官舎でした。現在の地理感覚で言いますと、市内循環バスの通る大仏殿前交差点のすぐ近くで、博物館の敷地から大仏殿へ行こうとして信号待ちしている時に後ろを振り向けば、森鷗外が滞在した官舎の門があります。母屋はなく門だけが残っていて「鷗外の門」と呼ばれています。門の傍には大きな石碑があって、門のいわれと鷗外が当時の官舎のことを詠った和歌が彫られています。

「猿の來(こ)し官舍の裏(うら)の大杉は

折れて迹(あと)なし常なき世なり」

鷗外の和歌『奈良五十首』

鷗外が奈良へ来ている時に詠んだ和歌をまとめたものに『奈良五十首』というものがあります。雑誌の「明星」に掲載されました。上記の「猿の來(こ)し・・・」の歌も五十首のうちのものです。

『奈良五十首』の中で私が好きなものは次の4首です。

「木津過ぎて網棚(あみだな)の物おろしつつ

窓より覗く奈良のともし火」

*奈良へやって来たという実感が伝わってきます。

「勅封(ちよくふう)の笋(たかんな)の皮切りほどく

剃刀(かみそり)の音の寒きあかつき」

*笋(たかんな)は筍。今まさに天皇の署名入りの封が切られ、正倉院の扉が開けられる情景が眼前に浮かびます。

「晴るる日はみ倉守るわれ傘さして

巡りてぞ見る雨の寺寺」

*晴れた日には宝物の虫干しをし、雨の日は仕事にならないので、奈良の寺寺を拝観していたのでしょう。

「とこしへに奈良は汚さんものぞ無き

雨さへ沙(すな)に沁みて消ゆれば」

*奈良は永遠に美しい。雨に汚れることもない。という意味でしょうか。

凄い研究『帝謚考』

鷗外は帝室博物館総長に就任する時、兼務で宮内省図書頭(ずしょのかみ)にも就任しています。図書頭とは国史の編纂や朝廷の書籍などを担当する図書寮という部門のトップです。鷗外が図書頭として編集したものに、天皇が死後に贈られる名前である「謚号(しごう)」の研究書『帝謚考』があります。

私は以前、飛鳥時代から奈良時代の天皇の謚号がどのような意味合いを持っているのかに一寸だけ興味を持ち、岩波書店の「鴎外全集」に収録されている『帝謚考』を見てみました。漢文を訓読した形の難しい文で、私にはほとんど意味が分かりませんでした。しかし、謚号の出典について中国のいろいろな書物と出来事が書いてあり、図書寮の役人と鷗外の中国の古書に対する造詣の深さに、これ以上ない驚きを感じたものでした。