奈良県南西部の街、五條市
奈良県の南西部、と言っても奈良県のおおよそ南半分は吉野や十津川の山地ですから、奈良県の中央西部と言った方が良いかもしれませんが、そこに五條市という街があります。歴史好きの人には幕末の天誅組蜂起の場所として、旅行好きの人には高速道路を通らない最長距離の路線バスが走る場所として、知られている街です。
この五條市には金剛寺と講御堂寺という寺があって、それぞれ非常に奈良の唐招提寺と深い関係があります。
金剛寺
ボタンがきれいに咲く金剛寺は江戸時代から明治時代にかけて唐招提寺長老の隠居寺でした。山門の傍には「唐招提寺長老の隠居寺」という石碑が立っています。隠居した長老は萱葺き屋根の庫裏で生活し、後進の指導にあたったそうです。
また、金剛寺には観音堂という建物がありますが、これは明治時代の唐招提寺長老が唐招提寺の金堂を真似して作ったそうです。真似して作ったと言っても、敷地が狭いですから建物が小さく、屋根の横幅も極端に寸足らずです。
しかし、長老の唐招提寺と金剛寺の関係を想う気持ちや、隠居後にも唐招提寺を身近に感じていたいという気持ちがとても強かったのでしょうか、唐招提寺金堂のものと非常に似ている鴟尾が観音堂の屋根の両端に付けられています。そしてその鴟尾には「唐招提寺金堂之模造」と文字が浮き出ていました。
講御堂寺
講御堂寺は、鑑真和上坐像の里帰りを実現した森本孝順(きょうじゅん)長老が長年住職をしていた寺です。現在はコンクリート造りのスッキリとしたきれいな本堂が再建されています。
この寺を訪問して驚いたことは、通用門のところに「森本孝順」の表札が今も掛けられていたことでした。森本長老が亡くなられてから15年以上も経つのですが、まだその表札を掲げているということは、それだけ森本長老の存在が講御堂寺にとって大きかったことを意味するのでしょうか。それとも名前を継いだ若い人がいるのでしょうか。私は前者のように思いました。
唐招提寺と五條市の関係
ある人から教えていただいたのですが、講御堂寺には森本孝順長老以外にお二人の唐招提寺長老が関係を持っていたとのことです。若い時に講御堂寺で修行していたのかなと私は推測しました。そして、五條市にある金剛寺や講御堂寺はなぜそんなに唐招提寺と関係があるのかと疑問に思いました。
現在、金剛寺は真言宗の高野山派であり、講御堂寺は律宗です。寺にも勢力の消長があり、唐招提寺は一時期、真言宗に所属していました。明治33年に律宗として独立したわけですが、それまでの関係から真言宗の金剛寺と繋がりが深いのかもしれません。
講御堂寺は律宗ですから、律宗本山の唐招提寺と関係が深いのは納得いきます。ただ、講御堂寺も江戸時代中期までは真言宗だったようです。開基が空海と伝わっています。
五條市は高野山に近いため真言宗の影響が強かったのだろうと思いました。