鑑真和上が日本に貢献したこと

鑑真和上は日本に戒律を伝え、真の仏教を広めた人ですが、仏教だけでなく医学、仏像彫刻、美術工芸、建築、書道など多くの分野で日本に貢献しています。薬草のように和上が自ら精通していたこともありますし、技術を保有している人を日本へ連れてきたことや貴重な物品を持ってきたことが、非常に役立ったのです。

王羲之(おうぎし)の書

書道の分野の貢献では、書聖と言われる王羲之の真蹟(しんせき)すなわち直筆の書を日本へ伝えたことが大きいです。和上が中国から持って来た物として、「王右軍の真蹟の行書 一帖」が伝わっています。王右軍とは王羲之の別名です。

王羲之の真蹟は数が少なく、中国でも入手が大変難しいものだったそうです。そのため日本では、王羲之の書を模写したもの、もしくは石碑などの拓本を手本にして学んでいました。和上がもたらした真蹟は手本として尊重され、その後の日本における書道の発展に非常に役立ったと言われています。

なお、この王羲之の直筆の書は天皇に献上された可能性が高いと思いますが、現在では正倉院にも残っていず、どこへいったのか分かりません。非常に残念なことです。

孝謙天皇の書

唐招提寺の南大門にほぼ真四角、ちょっと縦長の額がかかっています。唐招提寺と縦に二文字ずつ書いてあり、筆字の部分が彫られています。これは孝謙天皇が書いた文字を彫った額の複製で、本物は唐招提寺の新宝蔵に展示されています。

孝謙天皇も王羲之の書を学んだ人であり、額はカッチリした穂先の鋭い字で書いてあります。意志の強い女帝の感じが伝わってくる文字だと私は思いました。

米芾(べいふつ)の書

唐招提寺と書を語る時に忘れられないものとして、松本清張の推理小説『球形の荒野』があります。小説の冒頭で、主人公が唐招提寺にお参りするのですが、そこで参拝者が名前を書く芳名帳をたまたま見ます。芳名帳の中に、戦時中に死んだ叔父の書く文字と似た字をみつけたことから物語が展開していきます。

叔父は若い時から中国の北宋の書家である米芾(べいふつ)を手本にして書を習っていました。芳名帳に書いてある田中孝一という名前の「一」の字が、叔父の名前である野上顕一郎の「一」と似ていると主人公は思うのです。右肩上がりの癖、そして「一」と横に引っぱった筆のとまり具合・・・。あまり日本で知られていない書家の名前が出てくるのも、ミステリーとして引き付けられます。

ただ、私が米芾の書を何点か見る限り、「一」という字はいくつかの書き方がされていて、共通的な大きな特徴は感じられませんでした。あえて代表作の書で言えば、一の字の書き終わり近くなって、筆が浮き、線が細くなって、最後に止めが縦にしっかり書かれているということでしょうか。

ともあれ私は、『球形の荒野』の始まりが大和の古寺である「唐招提寺」の芳名帳の文字ということに、得も言われぬ旅心を感じたのでした。