魯迅の言葉
中国の近代文学者の魯迅は『且介亭雑文(そかいていざつぶん)』という本の中で、中国には「捨身求法の人」、我が身を捨てて仏教の精神を追求し実践した人たちがいて、それらの人は民族の誇るべき精神的支柱だと称えています。捨身求法の人とは玄奘三蔵法師や鑑真和上のことと理解できます。
玄奘三蔵法師の求法(ぐほう)
玄奘三蔵法師は、孫悟空の出てくる物語『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人と言われていますが、中国から印度へ仏教を学びに行き、多くの仏典を中国へ持ち帰って、中国語に翻訳しました。
当時の中国では外国へ行くことが禁じられていましたが、正確な仏教を学びたいと思った玄奘三蔵法師は国禁を破って出国し、のどの渇きに苦しみながら砂漠を渡って西に向かい、現在のアフガニスタンなどを経て、雪の天山山脈を越えて印度へ行きました。印度では釈迦の遺跡などを巡りながら優れたお坊さんに仏教を学びました。
中国に帰った玄奘三蔵法師は国禁を破っての出国を許され、皇帝から役人就任を強く要請されるのですが、経典の翻訳が自分のやるべき仕事であると主張します。そして、ついに皇帝を納得させ、翻訳事業に多くの協力を得たのでした。寝食を忘れてという表現がぴったり合う精力的な翻訳活動で、大量の仏典が中国語に翻訳されました。
玄奘三蔵法師にとって、印度への旅は文字通り求法の旅でしたが、その3万キロにもおよぶ旅へ法師を駆り立てたものは「中国や東方の国々に仏教の深い優れた言葉を弘(ひろ)めたい」(玄奘三蔵法師の伝記『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』の現代語訳本「玄奘三蔵」からの意訳)との熱い思いでした。
鑑真和上の弘法(ぐほう)
玄奘三蔵法師から86年後に生まれた鑑真和上は、日本からの渡日要請に応えて、何度もの渡航挑戦の末に日本へやってきます。真の仏教を日本へ広めるための行動でした。
鑑真和上が開祖である唐招提寺は、当初「唐律招提」という名で呼ばれていました。唐律=仏教を、招提=十方(じっぽう)へ広めるという意志で付けられた名前でしょう。ちなみに十方とは四方(東・西・南・北)と四隅(北東・北西・南東・南西)と上下の十方向で、あらゆる場所という意味です。
一般に宗教を広めることは布教と言われますが、私は、鑑真和上の日本への渡航と布教活動を、「玄奘三蔵法師の求法」と語呂を合わせて、「鑑真和上の弘法(ぐほう)」と表現したいです。「弘」という文字には「ひろめる」という意味があるのですから、場違いなものではないでしょう。
現代の具法(ぐほう・・・当て字)
玄奘三蔵法師が印度へ法を求め、鑑真和上が日本へ法を弘(ひろ)めてくださった、その仏教が現代の日本にどのように根付いているでしょうか。人が亡くなった時の葬儀だけでなく、日本語に多くの仏教用語が採り入れられていることを考えれば、仏教が日本に与えた影響は大きいと思います。
ただ、仏教の根本的思想、哲学がどれだけ日本人に理解され、それぞれの日常生活に定着しているかと考えてみますと、あまり無さそうに感じるのは私だけでしょうか。仏教の根本的思想とは何なのかさえ、私にはなかなか明言できません。仏教の教えを身に付け実践する、いうならば「具法(ぐほう)」ということは、現代でもまだまだのように思います。