薬師寺で私が注目する人
私が奈良の薬師寺に関連して注目している人は、玄奘三蔵法師、高田好胤管長、西岡常一棟梁、平山郁夫画伯、安田暎胤管長の5人です。生きた時代が私と違う玄奘三蔵法師を除いて、私は他の4人の方々と、接点と言えないほどのものですが個人的出会いがありました。
玄奘三蔵法師
玄奘三蔵法師は『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人です。もともと三蔵とは、「経」=釈迦の教え、「律」=仏教者の守るべき戒律、「論」=経と律を研究したもの、の3つを極めた僧のことを言います。しかし、玄奘三蔵法師が非常に有名ですので、三蔵法師と言えば玄奘三蔵法師のことを言うようになりました。
玄奘三蔵法師は、砂漠や雪山という厳しい自然の中を死の危機に瀕しながら歩み、高昌国の国王や唐の皇帝などの権力者からの脅迫や圧力に負けず、信念を貫きます。仏教をしっかり学びたいと思って印度へ行き、膨大な仏典を中国へ持って帰り、中国の言葉に翻訳しました。
仏典の漢訳事業に集中するために玄奘三蔵法師は、印度で学んできた唯識学の研究と伝道を弟子の慈恩大師に任せます。唯識学は、日本から遣唐使船に乗って中国へ渡ってきた僧が学び、日本へ伝えます。そして薬師寺は興福寺と共に唯識宗つまり法相宗(ほっそうしゅう)の総本山になります。このため、慈恩大師は唯識宗の宗祖、玄奘三蔵法師は唯識宗の始祖と言われ、薬師寺で尊敬されています。
高田好胤管長
<薬師寺の「案内坊主」>
高田好胤管長は、荒れ果てていた薬師寺を写経による勧進で伽藍復興させた人として有名です。もともとは父親が証券会社に勤めていて裕福な家だったのですが、父親が病死して生活が苦しくなります。そして小学校5年の時に薬師寺の小僧になりました。
師匠の橋本凝胤管長に厳しく育てられ、副住職になってからは修学旅行生に薬師寺や仏教の説明をする、自称「案内坊主」になります。毎年毎年、修学旅行生に薬師寺を案内しながら「仏心の種まき」をしたのでした。
<写経勧進で金堂再建>
管長に就任して、金堂再建を写経勧進で行うことを決心します。写経勧進とは、一般の方に般若心経1巻(260余文字)を書いていただき、納経供養料として1巻あたり1000円を納めていただこうというものです。その納経供養料を金堂再建の基金にするのです。写経され薬師寺に納められた書は再建される薬師寺金堂に収蔵することにしました。
金堂再建費用は約10億円と考えられていましたので、1巻1000円の納経供養料で建設費を賄おうとすると、100万巻の写経をしていただく必要がありました。高田好胤管長は写経100万巻を達成するために、テレビ出演、著書出版、全国行脚しての講演にと奔走します。講演は30年間で8072回行っています。換算しますと週に5回です。
1968(昭和43)年に写経勧進を始め、当初は遅々として巻数が伸びませんでしたが、やがて努力の甲斐あって徐々に巻数が増えていきます。3年後には金堂の起工式が行われ、1975(昭和50)年には写経が100万巻を達成します。財界からの寄付も一部あり、建設費用は集まりました。そしてついに1976(昭和51)年に金堂が再建され、落慶法要が行われました。写経開始から8年目の悲願成就です。
私が高田好胤管長にお会いしたのは、管長が写経勧進を開始して1年半ほど経った1969(昭和44)年の夏でした。ところは九州の阿蘇山頂で、火口の溶岩がときおり赤く見えていたことを覚えています。ツーショットの写真撮影をお願いしましたら、気さくに応じて下さいました。
<永遠の努力>
金堂再建がなって、肩の荷を下ろしたいと思った高田好胤管長ですが、「西塔を再建して欲しい、中門や回廊も復興して欲しい」と周囲から強い要請を受けます。非常に迷い苦しむのですが、要請を断り切れず、写経勧進と薬師寺の伽藍復興に継続して取り組む決意をします。
その時の心情が高田好胤管長の著書に書かれています。高田好胤管長がなかなか踏ん切りがつかず、ようやく決心する心境になった時に思ったことは次の通りです。
「百里の道は決して九十里が、また九十九里が半ばではなく、百里の道は百里に達してなお半ばであることを思わせていただきました」
私はこの文章を読んだ時、高田好胤管長が以前に色紙に書いていた言葉を思い出しました。それは「永遠なるものを求めて、永遠に努力する人を菩薩という」の言葉です。そして、著書に書かれている文章の末尾の「思わせていただきました」という文言に、何と謙虚な方なのだ、何と仏様の気が満ちている世界に生きている方なのだと思ったのでした。
高田好胤管長はこういう経緯があって、金堂再建で歩みを止めず、西塔、中門、回廊、玄奘三蔵院伽藍の再建へと、永遠の努力を始められたのでした。