安田暎胤管長
安田暎胤管長は薬師寺の第126世管長で、高田好胤管長(第124世)を支え、伽藍復興を継いだ人々の代表として私が取り上げたいと思っている人です。
執事長としての貢献
「写経勧進で金堂復興」と言いますと、すぐに誰でも高田好胤管長を思い浮かべるのですが、実は「写経勧進で金堂復興」の提案は安田暎胤当時執事長によって行われたものです。高田好胤管長の大衆性と、300万人を超える修学旅行生に対して薬師寺案内した縁に着目しました。高田好胤管長はテレビなどへ出て、話も上手く人気があったのです。
執事長とは一般企業で言えば総務部長にあたると思いますが、当時執事長だった安田暎胤氏は写経受付、納経手続き、写経勧進の庶務全般の業務を担当しました。
また、財界からの寄進の受付や依頼も安田暎胤当時執事長が行いました。薬師寺の伽藍復興と言えば写経勧進の成果と言われます。それはそれで正しいのですが、財界からの寄進もあったこと、寄進を依頼していく努力もしていたことを知っておきたいと思います。
若干横道にそれますが、私は100%夢物語、理想論ばかりでは夢の実現が難しいと思います。「写経勧進で伽藍復興」という夢を実現するために、多少それ以外の財政支援を受けても良いと考えます。地面の下で支えてくれる団体があって、民衆の「写経勧進で伽藍復興」という偉業が達成されるならば、民衆にとっても偉業達成が実体験でき、将来への継続の力が大きく生まれると思うからです。
話を安田暎胤当時執事長が貢献したことに戻しますと、西塔の建設用材である台湾檜の先行手配があります。結果的にその後入手困難になる台湾檜を、西岡常一棟梁と相談して購入し、西塔を再建する準備を進めたのです。その後、二人は協同して伽藍全体復興の道筋を作っていきました。
「薬師寺21世紀まほろば塾」の開始
薬師寺21世紀まほろば塾は「物で栄えて心で滅びる」ことを憂い、豊かな、温かい“日本人のこころ”の復活を説いた高田好胤管長の精神をひきつぎ、安田暎胤管長が立ち上げたものです。
塾では、管長や薬師寺関係者そして社会的に著名な人などが仏教の話や日本人の心の復活に関する話等をしています。奈良の薬師寺では毎月、薬師寺の東京別院ではほぼ2カ月に1回、その他日本の主要都市でも適宜、まほろば塾やミニ塾という形で講話がなされています。
私が間近に拝見した安田暎胤管長
私が安田暎胤管長を間近に拝見したのは奈良・西ノ京にある「よしむら」という蕎麦屋さんでした。唐招提寺金堂の平成大修理が完成し、特別法要が行われているとても寒い日の夕方でした。安田暎胤管長は、この時は既に管長を退任し長老となっていました。私が冷えた体を温めようと熱燗をカウンターで飲んでいましたら、安田暎胤当時長老が一人で「よしむら」に入って来て、テーブル席で蕎麦を食べ始めました。その姿が私には少し淋しそうに見えました。
私の勝手な想像だとは分かっているのですが、淋しく感じられたのです。「写経勧進で伽藍復興」に関して、確かに高田好胤管長が最大の功労者です。しかし、その陰に隠れてあまり知られていないですが、多大な貢献をした安田暎胤管長がいたのです。一生懸命、偉業達成に向けて貢献してきたのに、ほとんどの人は自分のことを注目してくれていない。そんな寂しさが感じられました。
おそらく、この淋しく感じたことというのは、私の心の貧しさから出たのでしょう。その後しばらく経ってから私は、安田暎胤管長は淋しくなんか思っていないと感じました。伽藍復興と「心の復興」に取り組んできたを誇りに思い、日々充実した生き方をしているに違いないと思うようになりました。そして安田暎胤管長よりもさらに注目されていない多くの人たちも、同じような思いでいるに違いないと考えるようになりました。