大衆によって再建された薬師寺金堂
これまで、この最新情報で何度も書いていますように薬師寺の金堂は大衆の「写経勧進」で再建されました。再建が完成して落慶法要が行われた時の様子を高田好胤管長が書籍に詳しく書いています。
「起工式の日、手印を捺した私の汚れた手に大勢の人が群がり寄り、次から次へと握手を求めてこられました。どれほどの人たちの手を握ったのか覚えておりません。しまいには手が痛くなってきましたが、それは心にしみ通る有難い痛さでした。
最後のお一人と握手し終わったときは、起工式が終わってすでに二時間近くたっておりました」
高田好胤管長の素晴らしい文章を無粋にも算数的に扱って、握手した人間の数をはじいてみました。2時間とは2×60分×60秒=7200秒ですから、仮に握手と人の交替時間を一人あたり3秒とすれば2400人、2秒とすれば3600人と握手したことになります。
握手した人だけでなく、起工式に参列した全員14000人、そして式に参列できなかったけれども金堂再建を心から支援している大勢の人たちによって、薬師寺の金堂は再建されたのです。
ドレスデンのフラウエン(聖母)教会
<大衆によって再建されたフラウエン教会>
薬師寺金堂が大衆によって再建されたことを考えますと、ドイツに同じように民衆によって守られ再建された建物があることを思い出します。その建物はドレスデンという街にあるフラウエン教会です。
<ドレスデンという街>
ドレスデンは旧東ドイツの東南部にあるザクセン州の州都で、「エルベ川のフィレンツェ」と称えられる美しい古都です。旧市街には多くのバロック様式の建物が建っています。
<フラウエン教会の壊滅と再建取り組み>
ドレスデンに中世から残っていたバロックの多くの建造物は、1945年に第2次世界大戦の空襲によって壊滅します。ドイツ最大のプロテスタント教会であるフラウエン教会も、教会前のマルティン・ルター像とともに崩壊してしまいます。戦後間もなく撮られた写真を見ますと、教会の壁の一部が2カ所残り、あとは瓦礫の山でした。
川口マーン惠美著『ドレスデン逍遥』によれば、市民はフラウエン教会の瓦礫を使って教会の再建、すなわち復元を望みますが、戦後の東ドイツを統治していたSED(ドイツ社会主義統一党)は教会の復元が共産主義の考えに反するとして、教会の瓦礫の撤去と更地化を図ろうとしました。教会の復元を望む市民とSEDのせめぎ合いは長い年月続くのですが、結局SEDの資金不足のため瓦礫の撤去は行われませんでした。
そして1966年に瓦礫は平和の象徴として保存されることになり、1982年にはフラウエン教会の周囲にキャンドルを灯す「思想の自由」の市民運動が始まり、1989年に「東西ベルリンの壁」が突き崩されます。
<世界最大のジグゾーパズル>
東西のドイツ再統一がなされた後、1993年に専門家チームによってフラウエン教会の瓦礫の山から「この瓦礫は教会のどこの部分か?」という調査が始まりました。できるだけ瓦礫を元あった場所に戻して教会を復元しようという取り組みが本格化したのです。この事業は世界最大のジグゾーパズルと言われ、コンピューターが駆使されました。そして、目に触れる場所に使うことが出来る石が1万個弱、目に触れない内部に組み込まれる石が10万個弱も集められました。もちろん瓦礫が残っていない部分や、元の材料があっても使えないものは新しい資材が使用されました。このプロジェクトには、ドイツ国民を始め世界各国からの多くの寄付が寄せられました。
<再建完成と大衆の支援>
2005年、遂にフラウエン教会は復元が完成しました。新しい石材と古い破壊される前の黒い石材が混ざった建物です。教会の祭壇の後ろの大きな石のレリーフも集めた石の破片で修復されました。
教会落成の式典が盛大に行われた日の夜中から朝の五時まで、教会は一般公開されました。落成のイベントは3日間行われ、10万人近い人が参拝しました。寒風の中で長い順番待ちの列に並び、教会へ400人単位で入り、10分間のミサをして、教会の外へ出ます。参拝者の一人だった川口マーン惠美さんは、その10分間がとても充実した内容で満足した時間だったと書いています。
大きい丸屋根の教会として市民に愛されてきた教会、平和の象徴として廃墟が残された教会、「思想の自由」のシンボルとなった教会、そして多くの民衆による寄付と専門家の技術によって瓦礫を使って復元された教会。ドイツのドレスデンのフラウエン教会は、日本の薬師寺の金堂と同じく、大衆の心のこもった再建建造物です。