奈良の桜

奈良に住んでいたことのある志賀直哉は奈良の藤と芝生は褒めているのですが、桜についてあまり良い印象は持っていませんでした。しかし、これは奈良の良い桜を、最も美しい年代の桜の時に、天候や咲き具合など諸条件が最良のもとで観なかったからではないかと思います。

奈良の桜で現在、私が印象に残っているもの、または気にかかっているものを3つ挙げますと、吉野の桜、宇陀の又兵衛桜、薬師寺の薄墨桜です。

吉野の桜

吉野の桜については拙著『迦陵頻伽 奈良に誓う』の第三章「吉野」に詳しく書きましたが、一般に一目千本と言われる桜が圧倒的な美しさを見せます。吉野山の麓の下千本から咲き始め、中千本、上千本、奥千本と山の上の方へ次々に咲いていきます。ちょうど開花時期の真ん中ごろに吉野へ行き、山の上から坂道を歩いて下ってきますと、つぼみ、咲き始め、見頃、満開、散り初め、花吹雪が一日で体験できます。

いつ吉野へ行ったら最も良い桜が見えるかですが、私は4月7日から16日くらいを奨めています。年によって開花の早い場合と遅い場合がありますので、現地の桜開花情報をこまめに把握して花見に出かけてください。もっとも、桜の時期の吉野は超満員で、車は麓から大渋滞ですし、吉野行きの特急電車の指定席は早くから売り切れ状態です。そのため、私は2週にわたって電車の予約をし、開花状況に合わせて一方の指定席をキャンセルして吉野の花見に行くようにしています。

宇陀の又兵衛桜

又兵衛桜という名前は全国的にあまり知られていませんが、かなり多くの日本人はその満開の姿を映像で見ています。それは何故かと言いますと、2000年のNHK大河ドラマ『葵 徳川三代』のオープニング画面に使われたためです。枝垂れ桜の満開の画像は当時、視聴者にどこの桜だろうと言われたものでした。また、近年では小泉淳作画伯が東大寺本坊の襖絵に描いた桜の絵の、三つのうちの一つがこの又兵衛桜でした。

一本の桜を観に多くの人が奈良県東部の宇陀の郷を訪れ、空いっぱいに咲く桜花に賛嘆の声をあげます。志賀直哉がこの桜を観たら、どう言ったでしょうか。思うだけで楽しくなります。

薬師寺の薄墨桜

薄墨桜といえば岐阜県の根尾谷にあるものが有名ですが、奈良の薬師寺にも植えられて、現在隆々と樹が育っています。なぜ、薬師寺に薄墨桜があるのかお寺の方に聞きましたら、現在の山田法胤管長が根尾村生まれであるからとのことでした。

実は私、まだ薬師寺の薄墨桜が咲いているところを見たことがありません。濃い緑の葉が生い茂っている姿や雪をかぶった姿は何度も見ています。その姿から、根尾の薄墨桜の生命力の大きさを思い出し、さぞや立派な、そして味わいのある桜の花を付けてくれるだろうと推測しています。根尾の桜は樹齢1500年と言われる古木で、そのゴツゴツとした大きな幹が強烈に印象に残っています。

薄墨桜の特徴である、満開では白、散るときには淡い墨色という花を、今年は奈良で観てみたいと思っています。

ちなみに、薄墨桜のある場所は、薬師寺・玄奘三蔵院伽藍の本坊寺務所前です。