幸田文と塔
幸田文は、小説『五重塔』を書いた幸田露伴の子供で、名随筆家として有名です。お父さんの書いた小説のためでしょうか、それとも『五重塔』のモデルになった東京・谷中の天王寺の塔が燃えた姿を見たためでしょうか、幸田文は塔に対する思い入れが非常に強かったそうです。
斑鳩三塔のひとつであります法輪寺の三重塔の再建に関して、資金集めに協力奔走しましたし、斑鳩に仮住まいして工事現場に何度も足を運んでいました。再建工事を取り仕切っていた宮大工の西岡常一棟梁や、常一棟梁の弟の西岡楢二郎棟梁とも幸田文は親しくいろいろの話をしました。
随筆『材のいのち』
幸田文の本に『木』というものがあります。いろいろ木に関する随筆がおさめられているのですが、私は『材のいのち』と『ひのき』いう随筆が特に印象に残りました。
『材のいのち』には、法輪寺の三重塔を再建しているときに西岡楢二郎棟梁から教えられた話が書いてありました。私が興味をそそられた主なものは、おおよそ次のような内容でした。
1つめは、「立木ではなく、材としても、木は生きている」。
2つめは、「どんな良材であっても木の寿命がある。寿命を使いつくして死んだ木の姿は、生きている木にはない、また別の貴さ、安らかさがある」。
3つめは、「一度(高価な)大木を扱った若い大工は、ぐんと精神安定してくる。木はさりげなく、大工を育てている」。
随筆『ひのき』
随筆『ひのき』には次のことなどが書かれています。
檜は寺の金堂や塔の建築に使われる良材ですが、幸田文は檜が山に生えている状態を見に行きます。そこで木材業の人から、「老樹と、中年壮年の木と、青年少年の木と、そして幼い木と、すべての年齢層がそろっていて、一斉に元気であることが、即ち(林の)将来性のある繁栄なのだ」と教わります。
また、二本の同じように育っていた檜が周囲の環境の変化で差が付き、片方は優秀な木となり、他方はアテと呼ばれる、難のある、よくない木となる話を聞きます。そしてアテが電動のこぎりで切られる壮絶なシーンを見学するのです。
「スイッチが入って、材は刃へ進む。切る鋭い音。と、材は抵抗した。ガッガッと刃を拒絶して、進もうとしない」
「(くさびが打込まれ)切口がひろげられた。(ふたたび)スイッチが入る。それでもまだ材は、抵抗して刃を嫌った」
そこに描写された材の姿は、西岡常一棟梁がよく言う「木の癖を把握して木を使う」という状態を通り越した、凄絶なアテの実態でした。