幸田文(?)と蘇鉄

拙著『迦陵頻伽 奈良に誓う』では、東京の夜景から宮崎県・都井岬で見たイカ釣り船の灯を思い出す場面があります。そして主人公の一人である貴一が、都井岬で泊まった宿のご主人から聞いたこととして、「東京から来たお客様に蘇鉄の実をあげたら、お客様が東京でその実を植え、実から芽が出てきた」という話が書かれています。

これは以前に小学校か中学校の国語の教科書に載っていた話を私が覚えていて、活用させていただいたものです。私はこの教科書に載っていた文章の筆者は女性だったように記憶していましたので、筆者は名随筆家の幸田文ではないかと思っていました。

事実を確かめてみたいと思い、だいぶ前に一度調べてみました。しかし、図書館で幸田文全集をめくっても、インターネットで検索しても、幸田文の「都井岬の蘇鉄に関する文章」は見つけられませんでした。やむなく、その時は調査を打ち切りました。

今回、幸田文の随筆である『材のいのち』や『ひのき』を読んで、ふたたび、強く「都井岬の蘇鉄に関する文章」の作者を知りたくなりました。木についてこんなに随筆を書いているのですから、蘇鉄の文も幸田文の手によるものではないかと思いました。また、『迦陵頻伽 奈良に誓う』は奈良の話を書いているのですから、そこに出てくる「都井岬の蘇鉄に関する文章」も、奈良に関係が深い幸田文が書いていたら有難いという手前勝手な希望もありました。

筆者は誰なのかの調査

既に退職をし、引っ越しをしていました都井岬の宿のご主人を人伝で紹介していただき、以前の話を尋ねてみました。ご主人の答えは「都井岬の蘇鉄は自生地として天然記念物に指定され、勝手に採ってはいけないことになっています。私は何人もの有名人に自宅の庭に生えていた蘇鉄の実をあげていて、教科書に載っていた文章の筆者は誰か覚えていません」とのことでした。

宿のご主人から教えていただいた何人もの有名人の名前、その他考えられることをキーワードとしてインターネットで何度も検索をしてみました。結果、面白いことが分かりました。

@ 女性の随筆家はかなり多くいました。

A 国立国会図書館の検索説明画面を丹念に追っていきますと、過去の国語教科書に載っている話を探せることを知りました。ただし作者や題名が分からないと、なかなか探せません。

B 都井岬の蘇鉄の実の話は私だけでなく、他の人の心にも強く印象に残っていることが分かりました。ある人は「中学校の現代国語の教科書」に載っていたとブログに書いていました。また、ある人は随筆家の岡部伊都子が書いた『都井岬』であると述べていました。

小躍りして岡部伊都子で検索してみましたら、岡部伊都子に『都井岬』という作品はありませんでした。ブログを書かれた人の勘違いのようです。私はガッカリしました。

最後の調査

これで何も引っかからなければ調査を諦めようと思って、国会図書館の検索画面からリンク先の「東書文庫」という教科書検索画面に入り、題名として「蘇鉄」「蘇鉄の実」「芽」「都井岬」と入力していきました。そうしましたら、『新しい国語 中学3年』という教科書に「都井岬(旅心旅情)」というものがありました。「コレダ!」と思いました。

筆者は私の知らない村井米子という人でした。村井米子を調べてみましたら、女性登山家の草分けで国立公園協会の評議員などを務め、旅や食に関する随筆を書いていました。

AMAZONにたった1冊出品されていました中古本『旅心旅情』を購入して、さっそく「都井岬の野馬、蘇鉄」というタイトルの一文を読みました。そこには、かつて読んだ記憶がおぼろげながらにある文章が書いてありました。

「試みに武蔵野の土に蒔いてみた紅い蘇鉄の実が、霜にもめげず雪にも耐えて、二年の月日を土の下に過ごし、ようやく地上に首をもたげたのであった」

「何という逞しい生命力か……私は膝まずいて(ママ)、頬ずりしたいほど、いじらしく思った」

幸田文の随筆ではなかったが

私は長年、都井岬の蘇鉄の実の話は誰が書いたのか知りたいと思っていました。推測していた幸田文のものではありませんでしたが、筆者が分かり嬉しい気持ちになりました。

そして、村井米子の一文では蘇鉄の実は貰ったものではなく、「拾ってきて」、「訪れた記念に一粒だけ、と特に希って、大切に持ち帰った」と書いてあることを知りました。宿のご主人があげた実なのか、そうでないのか、新たな疑問を感じてもおかしくないのですが、私はもう追究をやめようと思いました。もともと、南国・都井岬の蘇鉄の実が東京で芽を出したということで十分なロマンを感じていたためと、長年知りたいと思っていた筆者が分かったためです。