「最新情報」で最近思うこと

主に唐招提寺と薬師寺のことを書いてきています「最新情報」ですが、約2年続けてきて最近私の気持ちに変化が起きています。2つの寺の伝統行事や四季折々の情景などを紹介することは嬉しいことなのですが、果たしてそれだけで良いのかと思うようになったのです。寺であるのに、その形に関心がいっていて、中身の教えなり基本的考えについてあまりに無頓着過ぎるのではないかと若干反省の気持ちが湧いてきました。

私は寺に生まれたわけでも仏教を学んだわけでもなく、自分の目に見えるものしか信じない傾向がある人間です。その私にどこまで出来るか分かりませんが、わずかでも2つの寺の教えを知るようにしなければいけないと思うようになりました。

薬師寺は唯識宗

薬師寺は奈良の興福寺と共に法相宗、別名で唯識宗の総本山です。唯識の思想と理論は天竺(印度)で弥勒菩薩が考え出し、無著(むぢゃく)菩薩と世親菩薩によって体系化され、玄奘三蔵法師が唐(中国)へその確かな教えを伝えました。

玄奘三蔵法師は仏典の漢訳に専念し、一番弟子の慈恩大師に唯識学の研究と伝道を任せました。そのため慈恩大師が唯識宗の宗祖とされています。

日本の留学僧が、慈恩大師の跡を継いだ二祖・三祖から唯識宗を学び、日本へ伝えました。

唯識とは

唯識とは、「ただ認識だけ」の意味で、唯識の思想とは、「すべての存在と事象は『空』であって、存在しない。実在すると思うのは、人の心の動き、認識である」というものです。西洋の唯心論との違いの主な点は、唯識は無意識の領域を重視し、唯心論は「意識が諸存在を規定する」という考えであることだと思います。

唯識は深層意識へ着目します。人間の心を顕在意識と潜在意識(深層意識)に分けて把握し、顕在意識は直接的な感覚である視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の五感に「意識」を加えた6つの意識で成り立っていると捉えています。潜在意識は、聞き慣れない言葉ですが末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)という2つのもので構成されています。

末那識と阿頼耶識とは

末那識(まなしき)とは、自分にこだわり執着してしまう心です。阿頼耶識(あらやしき)のアラヤとは「蔵」の意味で、心の奥底にある大きな蔵に自分の全行為が蓄積され、その行為の記憶、痕跡が、未来の行為の源泉になると考えられています。

阿頼耶識と薫習(くんじゅう)

私は正直言って、「すべての存在と事象は『空』であって、存在しない。実在すると思うのは、人の心の動き、認識である」という考えには賛成できません。「実際に在るものは、在るもの」として受け入れるべきであって、心が在ると思うから在るのだというのは納得できません。心の持ち方で幸せになれるのだという考えを述べるために、無理な理屈を述べているように思えるのです。これは私が不勉強で、かつ素直に仏教の考えを受け入れようという気持ちが少ないためかもしれませんが、現時点の正直な気持ちです。

しかし、阿頼耶識の考え方には「同感!」と思いました。人は誰でも潜在意識の中に、過去のやったことや考えたことが残っていて、自分が行動するときにそれが影響を及ぼしてくると思うからです。

さらに唯識には薫習(くんじゅう)という考えがあることは素晴らしいと思いました。薫習とは、部屋で沈香をたくと、その良い香りが部屋にいた人の衣服にしみこむことですが、それと同じように、良い教えが自然に心の奥底にしみこむことも意味しています。私は、一般に言われる「背中で教える」とは、阿頼耶識に記憶を蓄積していることではないかと思うのです。そして阿頼耶識という潜在意識の中に植え込まれた良い教え、良い考え、素晴らしい行いが、人を良い行いに導いていってくれるのだと思います。