興福寺国宝館にある旧山田寺仏頭
<かつてメルマガに掲載されたものを、若干だけ修正して掲載>
山田寺は蘇我倉山田石川麻呂が飛鳥時代に建てた寺です。厳密に言うと、建て始めた寺です。石川麻呂は蘇我入鹿の従兄弟ですが、中大兄皇子に味方して入鹿を倒し右大臣になりました。その後謀反の罪を着せられ、山田寺で自害しますが、後になって無実が証明されました。そのためでしょうか、山田寺は皇室の援助で建築が続けられ、685年に完成したのです。講堂の本尊には丈六、高さが約二・四メートルの薬師如来像が安置されました。
ところが、1187年に山田寺講堂の本尊を興福寺の僧兵が強奪してきて興福寺の東金堂の本尊に据えたそうです。
1411年に興福寺の東金堂が火災に遭い、本尊も焼失したと思われていたのですが、約500年後の1937年、東金堂解体修理のときに薬師如来の台座の中から、その頭部が発見されたのでした。これが現在、国宝館に展示されている旧山田寺仏頭なのです。
石川麻呂がひとかどの人物だったのか、単に入鹿の蘇我本家への対抗心を持っていただけの人間なのか、私には分かりません。ただ、その生涯とこの仏頭の変遷を重ねてみますと、何か胸にジーンと来るものがあります。
仏頭の顔の大きさは1メートルくらいあります。頬はふっくらとした丸みをおび、鼻筋が通っています。唇は固く結ばれ、目は細く半眼の状態です。この像について相田みつをさんが詩を書いています。かなり長い引用になって恐縮ですが、非常に良い詩ですので掲載させていただきます。
こんな顔で
~山田寺の仏頭によせて~
相田みつを
○○
宮澤賢治の詩にある
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」
というのは
こんな顔の人をいうのだろうか
○○
この顔は
悲しみに堪えた人の顔である
くるしみに堪えた顔である
人の世の様々な批判に
じっと耐えた顔である
そして
ひとことも弁解をしない顔である
そしてまた
どんなにくるしくても
どんなにつらくても
決して弱音を吐かない顔である
絶対にぐちを言わない顔である
○○
そのかわり
やらねばならぬことは
ただ黙ってやってゆく、という
固い意志の顔である
一番大事なものに
一番大事ないのちをかけてゆく
そうゆうキゼンとした顔である
○○
この眼(まなこ)の深さを見るがいい
深い眼のそこにある
さらに深い憂いを見るがいい
弁解や言いわけばかりしている人間には
この深い憂いはできない
○○
息子よ
こんな顔で生きて欲しい
娘よ
こんな顔の若者と
巡り遭ってほしい