難読地名の間人
間人と書いて「たいざ」と読みます。難読地名のひとつとしてよく取り上げられますが、間人は京都府北部の丹後半島にあり、現在は京丹後市の一部となっています。この地に次のような伝承があります。
「昔、聖徳太子のお母様の穴穂部間人(あなほべはしひと)皇后が、蘇我と物部の戦いを避けるため、この地にしばらく住んでいました。都に帰るとき、皇后がお礼の気持ちから土地の名前に間人(はしひと)とつけるように言ったのに対して、それはあまりにも恐れ多いと思い、皇后がこの土地を去って(退座されて)いくのだから間人の文字を『たいざ』と呼ぶことにしました。」
この伝承はほとんど信じられませんが、不思議なことに、皇后に同行してきた七人の家来の名前が伝わっていて、その苗字の家が今も間人には数多くあり、同行してきた家来の子孫と言われているのです。
穴穂部間人皇后と聖徳太子の母子像
間人(たいざ)の海岸には穴穂部間人皇后と聖徳太子の母子像が立っています。聖徳太子が間人へ来たという記録や伝承はありませんから、土地の人が皆に分かり易いよう穴穂部間人皇后に子供の聖徳太子を添わせたのでしょう。
この母子像の前には「立岩」という大きな岩が海中に立っています。柱状節理が斜めに立っているので、古代に大きな地殻変動があったことが分かります。
感動した大成古墳群
母子像からそれほど遠くないところ、日本海へ陸地が突き出た高台に大成(おおなる)古墳群というものがあります。以前に行ったときは、大きな石が積み上げられた横穴式石室の古墳が草むらの中に半分埋もれかかっていました。時を経るごとに崩れ埋没していく墓の姿がそこにありました。全部を私は見たわけではありませんが、古墳は13個あるとのことです。大陸や半島から日本海を渡ってきた古代人が、遠い故郷を偲べるようここに埋葬されたのでしょう。