日本と朝鮮の国家間の犠牲者:日羅

朝皇龍古(あさみりゅうこ)の歴史小説『遥かなる未来のために』の「日羅召喚」という章を読んで、日羅という人が飛鳥時代にいたことを知った。日羅のお父さんは現在の熊本県の出身で、倭(やまと。日本のこと)の兵士として朝鮮半島へ渡り、倭の軍に置いてきぼりにされる。やむなく百済の兵士として必死に戦い、生きていく。子の日羅も父と同じく百済の兵士として高句麗などと戦い、戦功を上げて百済の臣として第二の位にまでなる。しかし半島情勢を知りたい倭政府から日羅は倭へ無理やり呼び寄せられ、何者かに殺されてしまう、という話であった。  当時の東アジア情勢の中で犠牲になった人の話であり、私は本を読んで非常に胸が痛んだ。調べてみると、日羅の墓がお父さんの故郷である熊本県八代(やつしろ)市にあることが分かったので、今回、墓参りをしようと考えた。

九州新幹線の新八代駅からレンタカー

八代へ九州新幹線で行き、新八代駅からはレンタカーを使った。行先は八代市坂本町百済来(くだらぎ)である。その先には新羅来(しらぎぎ)という地域もあるので、古代には百済や新羅から来た人たちがかなり住んでいたのだろう。 球磨川沿いに人吉方面へ向かって走っていくと、がけ崩れ防止の工事や道路の拡幅工事をあちこちでやっている。曲がりくねった一車線の道をダンプが頻繁にやってくる。ひなびた「道の駅」の傍には、日本で初めてダム撤去工事をしている旨の掲示板があった。 「さかもと温泉センタークレオン」という地元の人たちに利用されている施設のあたりからは、道がさらに狭くなって、ところによっては車一台通るのがやっとである。何軒かの農家と田畑がある風景が繰り返されていく。道は間違っていないのだろうかと不安になって来始めたとき、百済来地蔵堂の標識の真新しい石碑が見えた。

百済来地蔵堂と日羅の墓

家と家の間に坂道があり、そこを登っていくと少し広い空地になっていた。集落の広場のようで、広場の先に石段があり地蔵堂が建っている。石段の左手前には数坪ほどの植え込みがあって、石碑が見えた。木々の葉の間から「日羅公之碑」と読めた。 「これが日羅の墓か。ついに来た」。遠い昔の出来事に対しての、そして地域的にも遠く離れた場所への墓参りであった。日羅のお父さん、日羅、そして日本に戻ってきたというその子孫、それぞれの人が倭と百済の国の間でどんなに苦しんだだろう。私は心から冥福を祈った。  地蔵堂は扉を開けて中へ入ることができ、格子の向こうに地蔵菩薩の坐像が安置されていた。像についてはいろいろと伝承があり、私にはどれが真実か分からなかった。しかし、この地蔵菩薩が地域の多くの人たちから敬われ大切にされてきたのは間違いなく、地蔵堂の鴨居には結婚の記念写真などが貼られ、焼香台の近くに置かれた参拝ノートには多くの報告や感謝の言葉が書き込まれていた。

八代市で食べた大きなイカ

百済来地蔵堂から八代への戻り道、どこかで山里らしい昼食をとろうとしたが、食堂が混んでいたり定休日だったりして、なかなか食べられなかった。車はとうとう八代市街に入ってしまい、お腹の空き具合も我慢できなくなってきた。  たまたま駐車場がガラガラに空いた和食のレストランがあった。ランチタイムは終わって、休憩時間帯かなと思いつつ店に入ると、まだ注文オーケーとのこと。店内の張り紙に「イカの活き造り」と書いてあるので、「イカあるのですか」と聞いて注文した。実は昨夜、博多でイカを食べようとしたら海が荒れていて入荷していないと言われたのだった。  八代で出てきたイカの素晴らしかったこと。その味といい、大きさといい、価格といい、大満足であった。