馬見丘陵(うまみきゅうりょう)は奈良県北西部の広陵町や河合町などにまたがる丘陵地です。花が綺麗な馬見丘陵公園で有名な場所ですが、ここは古墳が沢山あって歴史ファンにも興味深い所です。私がいろいろな意味で面白いなと思った古墳を4つ挙げると次の通りです。

1、ナガレ山古墳

前方後円墳ですが、発掘調査をもとに復元整備されていて、古墳が造られた時の状況を想像することが出来ます。墳丘の西側半分は土と草に覆われていて現在普通に見る古墳でが、東側半分は円筒の埴輪の複製品がズーと並べられ、斜面には数多くの石が敷かれています。墳墓の長さが100メートルはあると思われる古墳ですから、この円筒埴輪と葺石が整然と並んでいるのを下から見ると迫力があります。

2、巣山古墳

巣山古墳は墳丘の全長が約220メートルの前方後円墳であり、古墳が250基以上もある馬見古墳群の中で規模が最も大きいものです。水鳥や家など種々の形をした埴輪、いわゆる形象埴輪、そして玉類や石製品などが数多く出土しています。これらのことから、巣山古墳は葛城の王の墓だろうと言われています。

葛城王朝という言葉をしばしば聞きますが、この巣山古墳を見ると、奈良県の西部の馬見丘陵から葛城山麓にかけて、かなり大きな勢力の豪族がいたのだろうと推測されます。

3、佐味田狐塚(さみたきつねづか)古墳

佐味田狐塚古墳は、円墳に四角い出っ張りがあり、形が帆立貝に似ている帆立貝式古墳です。墳丘の全長が86メートル、後円部の直径が66メートルあるとのことですが、この佐味田狐塚古墳を忘れられないものにしているのは、後円部の中央が片側2車線の都市計画道路で分断されていることです。

土地開発と史跡保存は兼ね合いを取るのが非常に難しい問題だと思いますが、目の前に舗装道路で分断されたお墓を見ると、やるせない気持ちになります。被葬者はどう思っているでしょうか。

4、牧野(ばくや)古墳

ナガレ山古墳、巣山古墳、佐味田狐塚古墳が馬見丘陵公園の中にあるのに対し、牧野古墳はニュータウンの側の牧野史跡公園にあります。小高い丘と感じられる古墳の中腹に、半ば土に埋もれたような形で石室への入り口があり、入り口の上には巨大な石が見えます。見るからに地に埋没しかけている古墳の雰囲気がします。

石室へ入ると、いくつもの巨石が組み上げられています。明日香村の石舞台とほぼ同じくらいの大きさの石室です。石舞台は掘り出されて明るいですが、ここは石組みが土に覆われ真っ暗で、懐中電灯がないと見ることが出来ません。

2基あったと言われる石棺のうちの1つが、かなり破壊された物ですが置いてあり、被葬者を供養する卒塔婆が立てかけられてありました。被葬者は、平安時代に書かれた『延喜式』の記述から、敏達天皇の皇子押坂彦人皇子と推測されています。

しかし、私はこの被葬者推測は納得がいきませんでした。押坂彦人皇子の一族の大和の拠点は現在の桜井市の忍阪(おっさか)のあたりであったはずです。埋葬するならそちらの場所が妥当でしょう。そして天皇にもなっていず、大豪族でもない押坂彦人皇子が、蘇我馬子の墓と言われている石舞台に匹敵するような巨大な墓を造ることが出来たとは思えません。

  
復元整備されたナガレ山古墳
牧野古墳入口と史跡表示板
牧野古墳入口
牧野古墳内部にある石棺