東大寺や薬師寺など奈良の大きな寺は、国家鎮護や万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈ったり僧侶が学問をしたりするためのものでした。そのため、亡くなった一般の人のお葬式をしたり、境内に埋葬したりすることはありませんでした。

現在も一般人の葬儀は行われず、寺にお墓もありません。その寺の僧侶のトップが亡くなっても、境内に埋葬されていません。僧侶が埋葬される場所は「○○寺の奥の院」と呼ばれています。

①東大寺の奥の院「五劫院」

東大寺の広い境内を北へ通り抜け、しばし住宅街を歩くと五劫院という寺に着きます。

ここが東大寺の「奥の院」で、境内に入ると重源上人のお墓が目に飛び込んできます。墓地の奥まったところには公慶上人の五輪塔があります。

重源上人は、平重衡の南都焼き討ちで焼失した東大寺の大仏と大仏殿を、平安時代の末から鎌倉時代の初めにかけて再建した人です。61歳という、当時としては高齢で東大寺の大勧進職(寄付金集めの最高責任者)に就き、非常に苦労して再建を果たしました。

公慶上人は、戦国の兵火で焼け落ちた大仏と大仏殿を江戸時代に再建した人です。寄付金集めに奔走していて江戸で死亡しました。奈良に埋葬されることを希望していたので、幕府から特別に許可を得て遺骸が奈良へ運ばれ、五劫院に埋葬されました。

②薬師寺の奥の院「龍蔵院」

近鉄西ノ京駅から「がんこ一徹長屋」の脇の細い道を北西方向へ歩いていき、少しだけ住宅街を通ると龍蔵院に到着します。住宅街を突き抜けてきたためか、龍蔵院の墓地は広いように感じられます。

墓地の奥、北東隅に、他の墓地から多少区切られたような一区画があって、そこに薬師寺の僧侶のお墓があります。薬師寺のトップであった歴代の管主(かんす)の名前が読み取れました。なかでも、高田好胤管主の墓石に彫られた文字は管主自身の書いたものから写しとったと見え、丸みを帯びて親しみが感 じられる文字でした。

③唐招提寺の奥の院「西方院」

西方院は、唐招提寺・南大門の前の道を真っ直ぐ西へ行ったところの右手にあります。ここで興味深いのは、江戸時代の護寺院・隆光大僧正のお墓があることです。

隆光大僧正は徳川五代将軍の綱吉およびその生母の桂昌院に働きかけて、奈良の社寺の復興を支援した人ですが、現在の奈良市出身であり、唐招提寺の塔頭の西方院で得度し修行したのでした。

隆光大僧正は「生類憐みの令」の元になった発言を綱吉にした人だと、通説として言われていますが、真実はどうだったのでしょうか。

ともあれ、遠藤證圓著『鑑真和上 -私の如是我聞-』によれば、『隆光僧正日記』には、唐招提寺の英範(師)や東大寺の公慶(上人)が将軍家に対しての社寺復興支援とりなしを依頼に、隆光大僧正のところへ何十回と会いに来たことが書かれているとのことです。それだけ面会するということは、隆光大 僧正が奈良への支援の気持ちを強く持っていたと言えるでしょう。

*追記・・・隆光大僧正の墓は西方院とは別に、出身地近くの奈良市二条町(平城宮跡の北)などにもあります。