①忍阪の里とは
忍阪と書いて「おっさか」と読みます。古代より意柴沙加(おしさか)、押坂(おしさか)、忍阪(おっさか)などと書かれていた地域で、場所は奈良県桜井市の市街地の東南東に位置しています。
ここは古代に、近江の大豪族である息長氏の大和における拠点であったと言われています。『日本書紀』によれば、敏達天皇と息長広姫の間に生まれた押坂彦人皇子の子が舒明天皇で、孫が天智天皇です。
②彼岸花が咲く静かな里
近鉄桜井駅南口からバスに乗って忍阪の里へ入りました。粟原川(おおばらがわ)、古い名前は忍坂川ですが、川に沿って国道166号線が走っています。国道を離れ、道を斜めに入っていくと忍坂街道です。里の漢字表記は忍阪で、街道の漢字表記は忍坂ですから一寸ややこしいです。
忍坂街道を歩いていくと、色付き始めた稲田の畔のあちこちに真っ赤な彼岸花(曼珠沙華)が咲いています。花が沢山かたまって咲いているところは女性の情念のようなものを感じました。
忍阪の里は全体に裕福なのでしょうか、瓦葺きの中央部分が盛り上がった、建築費がかかる「むくり屋根」の家が多いです。
③舒明天皇陵
忍坂街道を折れて、落ち着いた家々に挟まれた坂道を登って行きました。綺麗に整備された舒明天皇 押坂内陵(じょめいてんのう おさかのうちのみささぎ)があります。山裾から石の階段が積み上がっていて陵内は玉砂利が敷き詰められています。この陵には舒明天皇とお母さんの糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)が葬られていると宮内庁に治定(じじょう)されています。
御陵の「治定」とは、一般的に宮内庁が「そう決めた」ということで、必ずしも歴史的・学術的に正しいと証明されたものではないとのことですが、この忍阪の里には他にも近江の息長氏と関係の深い人たちのお墓や伝承があって、古代の真実はどうだったのだろうかと考えさせられました。
④古代を感じる奥の谷
舒明天皇陵の麓の脇道を、急な流れの小川に沿って山の奥の方へ歩いていきました。小川のすぐ側に鏡王女(かがみのおおきみ)の万葉歌碑があります。さらになだらかな山道を登って行くと鏡王女のお墓があり、「奥の谷」と呼ばれる場所に着きます。小高い山に囲まれた、木々と草だけの地域で、古代の野山を見ているような錯覚に陥りました。
⑤素晴らしい石井寺の石佛
忍阪街道に戻って少し歩いていくと石井寺がありました。この寺は忍阪の里めぐりで核になる場所の一つです。里の小父さんたちが境内を清掃していました。掃除の迷惑にならないようにそれほど広くない境内を見て回っていたら、コンクリート製の収蔵庫があり、そこに石造りの薬師三尊像があるようです。扉が閉まり、鍵が懸かっていて拝観できないなと残念に思っていましたら、一人の小父さんが鍵を開けてくれました。
中には素晴らしい浮彫の石佛が安置されていました。「伝 薬師三尊石佛」です。丸みを帯びた三角型の岩に、薬師如来が中央で椅子に座り、足を垂らしています。遠近法の技法が使われているのか、座っている腰のあたりが奥の方に見えます。如来の顔はふっくらとして穏やかで、頭上には天蓋が彫られています。両脇侍は立像で、向かって右側の像の衣にはうすい朱色が残っていました。また、三尊すべての唇が紅をうっすらと引いたようになっています。白鳳時代の石佛とのことですが、よくここまで綺麗な姿で石佛が残っていたものだと驚きました。石佛は撮影禁止でしたので、石佛の収蔵庫を撮影しました
収蔵庫の隣の庫裏には忍阪の里の資料が並べられ、ゆっくり拝観できるようになっていました。清掃などで忙しい場合を除いて、里の人がお茶などを出してくれるそうです。なお、石佛の拝観は通常、事前に桜井市観光課まで申し込むことが必要です。