①日本最初の写経場・川原寺

『日本書紀』によれば、天武天皇が政治を行うようになって2年目の3月に、写経生を集めて初めて一切経を川原寺(かわらでら)で写させたとのことです。

天武天皇の時代、川原寺は飛鳥の地にある大きな寺でした。その場所で大勢の写経生によって、日本にあった一切(すべて)の経典が写されたのでした。

平安時代の末期に寺は焼失し、現在は、川原寺跡として広大な敷地が発掘され残されています。

聖徳太子の寺として参拝客が多い橘寺から、畑と道路を挟んだ北側の位置にあります。

川原寺の跡地には現在、正式名称が弘福寺(ぐふくじ)という真言宗の寺があり法灯を継いでいます。

寺の別称として古称の川原寺を使用しています。

②川原寺での写経体験

日本最初の写経場である川原寺で、私も写経をしてみることにしました。

写経を行う部屋はそれほど大きくなく、高さの低い机と椅子が12セットでしたでしょうか、整然と並んでいました。

川原寺では3種類の写経が出来ます。ポピュラーな般若心経、字数が42文字と少なく十句で観音への帰依を示す十句観音経(じっくかんのんぎょう)、そして弘法大師のイラストと名前が書かれた紙に願い事と自分の名前を書く宝号写経です。

宝号写経は一般には「南無大師遍照金剛」と書くのですが、ここは子供向けに簡単な宝号写経を行っているようです。

私は筆で般若心経に挑戦しました。コーティングされた下敷きの上に薄い紙を載せて書く方式です。

下敷きと書く紙がずれないよう注意する必要があります。ペン字ですら下手な私ですから、筆の字など見られたものではありません。

しかし、不思議なもので何度も出てくる文字はトメとハライを心掛ければ、写経の後半には筆字らしくなってきました。

③写経末尾の「右為」の意味

写経の末尾に願い事を書くように言われていたのですが、私はその直前のところまで書いて来て、はたと困りました。願い事としては心願成就と書こうと思ったのですが、下敷きに書いてある「右為」の下の欄に書くべきなのか、右側の空白の行に書くべきなのか分からなかったのです。ともあれ、「右為」の下に書きました。

写経が終わった頃を見計らって住職が声をかけてくれましたので、その時に願い事はどちらの場所に書けば良いのか質問しました。

答えは「右為」の下で良いとのことです。

「右為」は「右の為に」ではなく「右の写経をしました」の意味だからと教えていただきました。

為は「ナス」であり、願い事の「ために」という記述は習慣的に省略されているのだと思いました。

④写経後の一服

完成した写経は弘法大師の絵が描かれた掛け軸の前に供えられました。

そして抹茶と干菓子が出されました。お茶を飲み、外へ目を転じると、川原寺の講堂跡の空地が遠くまで広がっていました。

   
川原寺(弘福寺)
写経場
写経の下敷き
完成写経を弘法大師画像前に
抹茶で一服
写経場から見る川原寺の講堂跡