新型コロナウィルス感染拡大の第二波などの関係で、またまた外出自粛をしていました。
そのため今回は室内でこれまで疑問に思っていた法隆寺のことの一部をまとめてみました。
第1節 2つの法隆寺とは
奈良県斑鳩町にある法隆寺は、聖徳太子に関係する寺、現存する世界最古の木造建築として有名ですが、明治の中頃から再建・非再建論争が長いこと行われてきました。
再建論の主張は、『日本書紀』に書かれているように、最初に建てられた法隆寺(斑鳩寺)は焼失したというものです。
非再建論の主張は、現法隆寺の西院伽藍は大化以前の古い建築様式であることが主な論拠でした。
その後、発掘調査や現法隆寺の「昭和の大修理」の際に分かった新事実などによって、再建論に軍配が上がりました。
この記事では2つの法隆寺を便宜上、次のように呼ぶことにします。
①焼失した斑鳩寺のことを「創建法隆寺」
②現在の法隆寺の西院伽藍を「新法隆寺」
第2節 2つの法隆寺の敷地の位置と伽藍配置
現在の法隆寺の境内を大まかに把握すると、金堂や五重塔のある「西院伽藍」と夢殿のある「東院伽藍」に分かれます。
そして一般には通常公開されていないのですが、西院伽藍の南側東部に「若草伽藍跡」というものがあります。
東院のある場所は、昔に聖徳太子やその子の山背大兄王子が住んでいた斑鳩宮が建っていました。
若草伽藍跡には創建法隆寺が建っていました。西院は新法隆寺です。
2つの法隆寺の敷地の位置と伽藍配置を見てみますと、創建法隆寺と新法隆寺は敷地が異なっていて、伽藍の中軸線(中心線)も一致していません。
創建法隆寺は南側の塔から北側の金堂へ走る中軸線が北の方で西に傾いています。新法隆寺は塔と金堂を横に並べて、南門から延びる中軸線は講堂に向かってほぼ南北に走っています。
第3節 現在の若草伽藍跡
『日本書紀』によれば、聖徳太子が建てた創建法隆寺が670年に火災で全焼したとのことです。
現在、若草伽藍跡の広い敷地には大きな礎石一つがポツンと置かれていて、遠くに現法隆寺の五重塔が小さく見えます。
なお、この跡地を一般の人が見学する方法は、法隆寺が毎年夏に開催している「法隆寺夏季大学」を受講することです。
夏季大学の初日に法隆寺境内を案内してくれるのですが、その時にこの跡地にも入ることが出来ます。
第4節 斑鳩宮と創建法隆寺の建設
斑鳩宮と創建法隆寺は、いつ、誰が、何のために建てたのでしょうか?最近の歴史学その他の研究成果を踏まえて、私なりの見解を書いてみます。
斑鳩宮は、601年に聖徳太子が、飛鳥と難波を結ぶ交通と情報の要衝の地・斑鳩を押さえるために工事着手して建てた、のだと思います。
斑鳩は、大和盆地を流れる大半の川(曽我川、飛鳥川、寺川、竜田川、佐保川等)が合流した大和川が流れる所のすぐ側です。
斑鳩一帯は聖徳太子の所領や、妃の一人である菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)の実家の膳(かしわで)氏の所領がありました。
難波津から飛鳥へ来る外国使節に、大和盆地の入口で大和の素晴らしさを印象付ける役割も、斑鳩宮とそれに付随する建物にあったと考えられます。
創建法隆寺は、用明天皇が病気平癒の為に建立を発願し、推古天皇と聖徳太子がその遺言を実行し、建立完成させたものです。
用明天皇を弔う寺であり、仏教などの学舎の役割もあったと思われます。
第5節 若草伽藍の向き
若草伽藍の向きは正南北ではなく、北側で約20度西に傾いています(南側では東に傾いていることになります)。
この西傾約20度は、実は若草伽藍だけでなく、斑鳩の主要伽藍のほとんどがそうなっています。東院の場所にあった斑鳩宮、法起寺の元の岡本宮、法輪寺の元の膳宅、場所が移動する前の中宮寺跡などです。
斑鳩の主要伽藍の西傾約20度の線をそのまま東南の方向へ伸ばしていくと、その線に沿って道があり、約24km先には飛鳥の主要建造物があります。
この道は聖徳太子が斑鳩と飛鳥の間を通ったというところから太子道と呼ばれています。
また、斑鳩と飛鳥を最短で結ぶためにほぼ直線で斜めに延びていることから筋違道(すじかいみち)とも言われています。
現在、斑鳩の主要伽藍のある地域を出て太子道を行くと、ほどなく飽波神社があり、境内の側には太子道の解説板が立っています。
解説板のある道を進めば、今も畑の中を斜めに走っている道が見えます。
第6節 斑鳩主要伽藍、西傾約20度の意味するもの(推測)
私が学生の頃、聖徳太子は政治的な求心力を晩年失って斑鳩で隠遁生活をしていた、太子と推古天皇・蘇我馬子は対立していた可能性があると教わりました。
しかし、斑鳩主要伽藍が西傾約20度で飛鳥の方へ顔を向け、斑鳩と飛鳥が斜めの直線道路で結びつき、太子が頻繁に往復していたということを見れば、かつて教わった内容が正しいとは思えません。
北西に位置する斑鳩と南東に位置する飛鳥の2拠点が一体になって大和を治めようとしていた、そして、筋違道は大和政権の重要2拠点を短時間で結ぶ役割を持っていたのだ、と私には思えます。