コロナ第3波の外出自粛により、今回も室内で、これまで疑問に思っていた法隆寺のことの一部をまとめてみました。古代の謎を考えるのも、奈良の楽しみ方の一つと言えます。

●法隆寺金堂の本尊

法隆寺は現存する世界最古の木造建築として有名です。主要伽藍である西院伽藍に入ると左手に五重塔、右手に金堂があります。

金堂の本尊は釈迦三尊像で、中央の釈迦像は聖徳太子の身長に合わせて造られているとのことです。

釈迦三尊像の光背の裏面中央には約30センチメートル四方に、この仏像がどういう経緯で造られたのかを示す銘文(14文字×14行の196文字)が彫られています。

●金堂釈迦三尊像光背銘の大意(通説の解釈)

銘文の大意は通説によれば次の通りです。 「推古天皇29年(621年)12月、聖徳太子の生母・穴穂部間人皇女が亡くなった。

翌年正月、太子と太子の妃・膳菩岐々美郎女(膳夫人)がともに病気になったため、膳夫人・王子・寵臣は、太子等身の釈迦像の造像を発願し、病気平癒を願った。

しかし、同年2月21日に膳夫人が、翌22日には太子が亡くなり、推古天皇31年(623年)に釈迦三尊像を仏師の鞍作止利に造らせた」(出典:Wikipedia)

●金堂釈迦三尊像光背銘

光背銘については、三尊像完成と同時期に彫られたという説と、後の時代に彫られたという説(追刻説)あり、まだ真偽のほどは決着していません。

しかし、歴史学者の東野治之氏の実証研究によって、三尊像完成と同時期に彫られた説が若干優位のように私には思われます。

●銘文の「弗悆干食王后」の読み方(私見)

 しかし私は次のように考えます。

 ・銘文の「上宮法王、枕病弗悆干食王后仍以労疾、並著於床」は、「上宮法王、病に枕し、悆(こころよ)からず食を干(ほ)す。王后、よりて労疾(いたつき)を以て、ならびに床に著(つ)きたまふ」と読む。

 ・意味としては「容体が悪くなって食事が摂れなくなった」だと思う。

 ・天皇家の重要な人の健康状態を表すとき、弗悆は単に「食事を快く思わなかった」や、「食事を摂りたがらなかった」という程度の意味ではないと思われる。

 ・薬師寺建立のいわれが書いてある東塔擦名にも「中宮不悆」と表現されている。寺を建立して病気回復を願うほどなのだから、不悆や弗悆はかなり重い病気に罹っていると解釈するべきだと思う。

  (注:弗は「ふつ。ず」などと読み、否定の助詞)

●聖徳太子死亡の前日に死亡の「王后」について(通説と異説)

「弗悆干食王后」を「食に悆(こころよ)からず、王后は・・・」と読んでも、「干食王后(かしわで王后)は・・・」と読んでも、王后は膳(かしわで)王后、菩岐々美郎女(ほききめのいらつめ)のことというのが通説です。

これに対して、歴史学者の喜多貞吉氏は「王后は菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)」と異説を述べています。

●王后に関しての私見

私は、喜多貞吉氏の言うように「王后とは聖徳太子の正妃の菟道貝蛸皇女」だと思います。

その理由は次の通りです。

①聖徳太子の妃として記録に残っているのは4人。

    ・推古天皇の娘の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)

    ・推古天皇の孫娘の橘大郎女皇女(たちばなのおおいらつめひめみこ)

    ・大臣・蘇我馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)

    ・臣・膳加多夫古の娘の菩岐々美郎女(ほききめのいらつめ)

当時の妃の序列から言って、王后は菟道貝蛸皇女でしかありえない。

②親であり権力者である推古天皇や蘇我馬子が生存している時に、我が娘を差し置いて、仏像に他の「序列の低い妃」の名を刻印させるはずがない。

●王后に関する東野治之氏の論

現代の歴史学者の東野治之氏は王后に関して次のように述べています。

①木簡からの王后解釈

   ・木簡に、炊事の世話をする召使の「廝丁(しちょう)」のことを「干食」と書いてある例がある。

   ・そのため、釈迦三尊像光背銘の「干食王后」は膳菩岐々美郎女と解釈するのが適切。

②王后の「后」について

   ・「后」は正妻の意味ではなく単に「キサキ」の一表記。

③銘文は大半が4文字区切りで書かれているので「干食皇后」と読むのが妥当

●東野治之氏の論への私見

これまで私見として述べてきたことを除いて、東野治之氏の論に関しての私の考えは次の通りです。

①木簡の事例について

  ・いくら「かしわで」と読むからと言って、王后の名前として、料理担当の召使という意味の「干食」という文字を使うとは思えない。

②王后の「后」について

  ・「后」はやはり正妻の意味で使われることが多く、単に「キサキ」の一表記というのは無理があるように思う。

③銘文の4文字区切りについて

・銘文は中国の古い文体の四六駢儷体(しろくべんれいたい)で書かれている。

  ・四六駢儷体の特徴の1つは、主に4文字と6文字の表現が使われていること。

  ・「干食王后」に関係する文は4文字と6文字で区切って読むことが可能で、4文字区切りより対句的にも合致している。

●喜田貞吉氏の『上宮聖徳法王帝説』評

聖徳太子の伝記として以前から重視されてきたものに『上宮聖徳法王帝説』(以下、法王帝説)がありますが、これに対して喜多貞吉氏は次のように評しています。

 ・『法王帝説』は、従来「一番古い太子伝」と見る人が多いが、本書は太子の伝記として編纂されたものではない。

 ・本書の註解者は「法興元」の年号も分かっていない僧侶である。

 ・『法王帝説』の註解者が釈迦三尊像光背銘の「王后」を菩岐々美郎女(膳妃)と註釈したのは深い根拠があっての事とは思われない。

 ・膳妃が法輪寺の寄付者として著名だった為に、軽率にそれを書いたのだろう。

 ・後の法隆寺側の諸本はそのままこれを踏襲。

 ・近代の歴史学者もまた何ら検討を加える事なく、この旧説に盲従している。

 ・光背銘の「王后」は菟道貝蛸皇女と推定すべき。

 ・膳妃は太子の死後も生存していて、法輪寺の寄付者となっていたとも伝わっている(『法輪寺家縁起』)。

 ・太子の妃として知られている4人の中で、菟道貝蛸皇女だけが『法王帝説』に書かれていないのは、本書の記事の目的が太子の王子女の名を収録することにあり、太子のあらゆる妃を網羅する為でなかったから。

 ・そして後の諸書がいずれも本書にならって、菟道貝蛸皇女の名を漏らした。

●銘文の「王后」に関する私見の結論

 以上の事柄を踏まえ、私見の結論を述べると次の通りです。

①銘文の「弗悆干食王后」の読み方は、「悆(こころよ)からず食を干す。王后は・・・」が良いと思う。

②聖徳太子死亡の前日に亡くなった王后とは聖徳太子の正妃の菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)だと私は思う。

③その理由

    ・王后とは基本的に正妻のことである。

    ・菩岐々美郎女は当時の妃の序列では第4位。

    ・親であり権力者である推古天皇や蘇我馬子が生存している時に、我が娘を差し置いて、仏像に他の序列の低い妃の名を刻印させるはずはない。

    ・同じ理由から、墓に太子と合葬された人がいるとすれば、菟道貝蛸皇女の可能性が高い。なお、『日本書紀』に聖徳太子に関しての合葬の記述は無い。

    ・磯長陵に生母・穴穂部間人皇女、聖徳太子、妃の菩岐々美郎女の3人が合葬されているという通説は、正しいとは思えない。

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