§5.日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由
日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由を日本での仏教の歴史から、考察してみます。
第1節 日本での仏教の概略
図表の「日本での仏教概略歴史」を年表にしてみました。
飛鳥時代の「仏教の導入」から始まって、奈良時代の「国家鎮護の思想」の広まり、鎌倉時代の「仏教の民衆化」があり、江戸時代には寺々が「統治機構の末端」を担い、明治初期には寺々への憤懣が爆発し、現在は仏教のあるべき姿が「模索」されています。
第2節 日本での仏教の歴史
それぞれの時代の仏教をもう少し詳しく見ていきましょう。
●聖徳太子は仏教の内容を教え、広めようとしました。
・維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんぎょう)、法華経(ほけきょう)という3つのお経について、教えの内容を解説する本を聖徳太子は執筆しています。その本のことをまとめて三教義疏(さんきょうぎしょ)と言います。
・また、聖徳太子はお経の内容を推古天皇その他の人々へ講義をしています。
・参考画像として、三教義疏のうちの1つである『法華義疏(ほっけぎしょ)』巻一の冒頭部分を示します。この『法華義疏』は聖徳太子が自ら書いたものと言われていて(異説もあり)、御物となっています。
●奈良時代には鎮護国家の仏教となっていきます。
・僧侶は国の官僚機構に取り込まれます。
・そして興味深いことには、(経典の内容理解よりも)読経の発音の正確さが重視されます。奈良時代の養老4年(西暦720年)には、「今後、僧侶は唐から来た僧などに読経するときの発音を習い、変な読み方をしないように」という詔(みことのり)が出ています。
●鎌倉時代に仏教は庶民に広がっていきます。
・「念仏を唱えることで救われる」などと簡単な教え方で仏教が広まっていきます。
・また、仏式の葬儀が少しずつ行われるようになったのもこの時代からです。
●江戸時代は寺が統治機構の末端になりました。
・キリシタン取締が目的の寺請制度の実施により、寺が民衆に対して権力を持つようになります。寺請制度とは、簡単に言えば、ある寺の檀家になることでキリシタンでないことを証明してもらう制度です。他国へ移動する時の許可証も寺が発行するようになり、民衆の上に寺が存在するようになってしまいます。
・寺は多くの檀家を保有し、経営基盤を確保しました。そうなると真面目に布教活動などをしなくなります。お経の教えなどを民衆に分かり易く伝えることなどはされません。
・もちろん多くの寺の中には民衆に寄り添った寺や優しいお坊さんもいたでしょう。しかし、全体の割合から言うと、寺は民衆の上に存在していたのです。
●明治時代の初めに廃仏毀釈が起こります。
・神道を国家統合の根本にしようとして政府が神仏分離令を出しました。これは仏教排斥を狙ったものではないと言われています。
・しかし、民衆の寺に対する怒りが爆発し、寺や仏具を破壊する廃仏毀釈運動が各地で起こります。
・廃仏毀釈に関する参考画像を2枚示します。1枚目は、修学旅行などでよく皆で記念撮影をする奈良・興福寺の五重塔(国宝)の写真です。この五重塔は、廃仏毀釈の時に当時の金額で25円(異説あり)、現在の貨幣価値に換算して10万円程度で売られそうになりました。
・2枚目は、江戸時代には西の日光と言われた大きな寺であった、奈良県天理市の内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)跡の写真です。廃仏毀釈で堂塔は破壊され、現在はかつての浄土式庭園の跡である池があるのみです。
・廃仏毀釈は数年で下火になりますが、日本各地の寺は非常に疲弊しました。
●明治半ば以降、仏教研究の飛躍
・これまで中国や半島三国を経由して日本へ伝わっていた仏教は大乗仏教で、それ以外の仏教があることを日本ではほとんど知られていなかったのですが、世界との交流によって釈迦の元々の教えの原始仏教と小乗仏教が存在することが分かり、それらの研究が始まりました。
・また、漢訳の仏典だけでなく、仏教の経典が元々書かれた古代インド語のサンスクリット語の仏典による研究が始まりました。漢訳仏典は簡潔に表現されていますので、内容の理解がいろいろと可能です。そのため、誤った解釈がなされていることもあることが分かってきました。
・この時期、日本では仏教研究が飛躍的に進歩したのです。
●昭和後半以降、仏教の弱体化が進み、それへの対処策の模索と再生への取り組みが開始されます。
・戦後の高度成長で地方から都市へ人が大量に移動していきます。また、家制度の廃止、核家族化で寺の檀家との結び付きが弱体化します。
・『寺院消滅』の危機が発生し、それに対してどうしたら寺々が生き残れるかが模索され、再生への取り組みが一部で始まりました。
・参考画像として、近年出版された本の表紙を示します。1冊はタイトルそのものが『寺院消滅』で寺院存続の危機を書いています。もう1冊は寺院の再生への新たな取り組みを紹介している『ともに生きる仏教』です。
・なお、団塊の世代の高齢化の伴い、生死の問題に関心が向くことが予想されますので、今後は寺々や仏教に対する関心度やニーズが高まってくると思われます。
第3節 日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由
第1項 統治のための利用
①奈良時代から鎌倉時代には般若心経だけでなく仏教全体が、鎮護国家の思想で活用されるようになりました。
・疫病(天然痘)、天災(大雨・日照り・地震)、反乱等から国家を守ることを祈るためのツールとして仏教が使われました。
②江戸時代になると寺院は統治機構に組み込まれ、寺請制度などで寺院の収入が保証されると、一部の心ある僧侶を除き、僧侶は本来の自分の使命である布教活動をしなくなりました。
③仏教の本質は「良い生き方の教え」なのですが、その教えは民衆へ広く説明されませんでした。
第2項 仏教の解釈と説明の難しさ
・日本への仏教の伝わり方や、伝わってくる情報の不十分さという歴史的事情により、仏教や般若心経を解釈・説明する際に難しさがありました。これも日本で般若心経の意味が広く説明されてこなかった理由のひとつと考えられます。
①仏教は、漢訳仏典によって日本へ伝わったため、解釈の難しさが増しました。
・漢字や漢文は簡潔表現の為、多くの意味に取れます。
②明治時代の半ばまで小乗仏教の存在が分からず、大乗仏教の般若心経の位置づけが理解困難でした。
・小乗仏教の情報は、江戸時代の鎖国が解かれ日本が世界と結び付くことによって、明治半ばに日本へ入ってきました。
第3項 分からないものを有難がる日本の変な思想
①分からないものを有難がる変な思想(集団的な特性)が日本にはあります。また、分からないものにしておくことで、有難がらせ、権威付けする傾向があります。
・この特性や傾向は、長い時間を掛けて一部の人達によって意図的に作られてきた可能性があります。
・その証拠に、経典の和訳や口語訳がほとんどされてきませんでした。他国では現地の言葉に訳されているのにです。
・また、日本人の話す普段の言葉で書かれた『心経鈔(しんぎょうしょう)』(*)は、近代の日本の仏教学者が編集した『日本大蔵経』にも『大日本仏教全書』にも入っていません。
*『心経鈔(しんぎょうしょう)』は江戸時代前期の僧侶の盤珪永琢(ばんけいえいたく)が書いた『般若心経』の解説本です。
・なお、念のため言葉を付け加えておきますが、近年、心ある僧侶や仏教学者は「上記のようなことではいけない」と、経典を分かり易く説明する取り組みを始めています。