§6.「空」と「般若波羅蜜多」と「呪文」の再考

第1節 はじめに・・・般若心経の2つの解釈

●般若心経の意味を理解しようとして幾つかの解説書を手に取ってみると、その説明内容・解釈に大きな違いがあることに気づきます。

この違いが般若心経を理解する際に混乱をもたらすことにもなっています。そのため、まず解釈の違いを把握しましょう。

●般若心経の解釈は大きく分けると、2種類あります。

1つめは、「般若心経は般若経のエッセンスである」という解釈で、これが言わば通説です。法相宗や禅宗などで述べられています。

2つめは、「般若心経は呪文の提示をしている」という解釈で、真言宗などで述べられています。近年、こちらの解釈を支持する人が増えてきているように私には感じられます。

●解釈1.般若経のエッセンス

 ・般若心経は「般若経の重要な教えを説いた経典」という捉え方です。

 ・心経の「心」は心臓、真髄、核心、重要の意味との理解です。

 ・般若波羅蜜多は「仏様が覚った真実(智慧)」。

 ・仏様が覚った「空と縁起」の思想、つまり“万物は変化するので、それ自身の性質(固定的な本質)は無い。因縁果で変化する”という思想を身に付けて、自分に拘(こだわ)ることを止め、苦しみから脱しようとの教えです。

 ・六波羅蜜多(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の取り組みの必要性も訴えています。

●解釈2.呪文の提示

 ・般若心経は「思いが叶う(苦しみから救われる)祈りの言葉を伝えようとしたもの」との捉え方です。

 ・心経の「心」は心呪のことで、呪文の意味との理解です。

 ・般若波羅蜜多は「呪文、祈りの言葉」のことです。

 ・般若心経は、大乗仏教の智慧が完成・凝縮された「般若経、特にその祈りの言葉」を教えているという考えです。

 ・自己努力では叶わない救済を、神秘なもの、絶対的なものに願うという考えです。

 ・祈りの言葉は、「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)」です。

●私が良いと思う解釈

・私が良いと思う解釈は、解釈2の「呪文の提示」を主としながら、そこに解釈1の一部分である「六波羅蜜多の修行」を付け加える、というものです。

・その理由として、次の①から③をあげることができます。

①般若心経の中で詳しく述べられていない「空」の思想を、般若心経の中心的教えであると説くことが、般若心経を難しく感じさせているように私は思います。

②般若波羅蜜多には「六波羅蜜多の修行」の意味もあるので、般若心経は「呪文の提示」を主にしながらも、それに加えて、修行していく、努力していく、という意味合いがあると解釈するのが良いと思われます。

③前々回、本シリーズの第4回で説明した通り、般若心経を段落で区切って現代日本語訳し、各段落の内容を順に追ってみると、般若心経は般若波羅蜜多という「呪文の提示」をしている、と考えるのが妥当だと分かります。

第2節 「空」と「般若波羅蜜多」と「呪文」の再考

・第1節の般若心経の2つの解釈および私が良いと思う解釈に深く関係する3つのキーワード、「空」と「般若波羅蜜多」と「呪文」について再度考察し、理解を深めるようにします。

第1項 「空」とは

●「空」とは

   ・まず初めに「からっぽ、無」といういみがあります。これは一般的な理解と言えます。

   ・次に空とは「因縁果によって変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がないこと」という理解があります。これは釈迦の理論、解釈です。

   ・3番目に空とは「人間を苦しみから救う絶対的なもの、神秘的なもの」という解釈があります。これは大乗仏教の考えです。

●釈迦の「空」と大乗仏教の「空」は違うわけですが、違う意味のことを、なぜ同じ「空」という文字で表現したのでしょうか?それは、「空」の文字に2つの意味があるからです。

●「空」の2つの意味:「から」と「そら」

   ・釈迦の「空」は、形あるものの「それ自身の性質(固定的な本質)は無く」、他のものとの因縁果で変わってくるものだから「空っぽ」の「空(から)」です。

   ・大乗仏教の「空」は、膨らんで、膨らんで、出来た大きな空間(=大空)という考えから「空(そら)」 と言えます。

     *ちなみに、「空」のサンスクリット語(古代インド語)の語源「シューニャ」は「膨らむ」という意味の動詞です。

     *空間の果てしない広がりは宇宙と同じと考えられ、知恵の及ばない神秘なものと認識されました。

   ・インド哲学大家の中村元(はじめ)氏は次のように述べています。

     「『そら』は『大空』や『天、天空』のことで、古代人にとって天空は神々の住む偉大な領域であった。」

第2項 「般若波羅蜜多」とは

*般若のサンスクリット語は「プラジュニャー」です。サンスクリット語の俗語のパーリ語では「パンニャ」です。

この「パンニャ」を音写、音で漢字に置き換えたのが般若です。

般若は「智慧」という意味です。

*波羅蜜多のサンスクリット語は「パーラミター」で、これを音写したのです。波羅蜜多は「完成した」という意味です。

●般若は「智慧」、波羅蜜多は「完成した」という意味ですから、般若波羅蜜多は「智慧の完成」という意味になりますが、「智慧の完成」には2通りの解釈があります。

   ・1つは「智慧を完成させること」という解釈で、六波羅蜜多の修行をしていくことの 必要性を説いています。奈良の薬師寺や興福寺その他の多くの寺がこの解釈をしています。

なお、六波羅蜜多とは、仏になる前の修行者が取り組むべき6つの修行項目のことで、次回の第7回に少し詳しく説明をします。

   ・「智慧の完成」のもう1つの解釈は「完成された結果としての智慧」というものです。

     これは呪文、祈りの言葉ということになります。密教と呼ばれる真言宗や天台宗などでこの解釈がされています。

●なお、般若心経の「完成された仏の智慧」とは、釈迦が直接言った言葉や智慧のことではなく、釈迦の慈悲の心を踏まえて発展させた「大乗仏教の智慧」のこと、という点に注意すべきです。

第3項 般若心経の呪文の意味

「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)」の意味について考えてみましょう。

●これについては、「呪文なのだから翻訳せず、そのままの音で唱えるのが良い」との考えが根強いです。

●しかし私は「意味を分かって唱えるべき」と思っています。

なぜなら、意味が分かってこそ祈りに思いが込められると思うからです。

●玄奘三蔵法師が、呪文なので呪力が弱まらないよう、翻訳せずにそのまま唱えるように言ったのは、

①この呪文の意味を説明した上で言った、もしくは

②説明しなくても意味が分かる弟子たちに言った、

のだと私は思います。つまり、意味を分かった上で、原語のサンスクリット語で呪文を唱えたのだと思います。

●さて、般若心経の呪文の一般的な訳は次のようなものです。

  ・「行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ」

  ・これはNHKテレビテキスト『100分de名著 般若心経』での仏教学者・佐々木閑(しずか)氏の訳ですが、インド哲学の大家の中村元(はじめ)氏なども同じような訳をしています。

  ・正直なところ、この訳は私にはちょっと意味が理解しづらいです。

●そこで、般若心経の呪文「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか)」をサンスクリット語からの音写でなく、その意味で漢訳したものを見てみましょう。

唐の僧の法蔵という人が直訳したものがこれです。「度、度、彼岸、彼岸普度、覚成就(ど、ど、ひがん、ひがんふど、かくじょうじゅ)」。

「度」の意味は①渡る、越える、②救う、③解き放たれる、の3つがありますが、ここでは①の「渡る」でしょう。

「彼岸普度」の「普」は①あまねく、すべてに広く、の意味です。

●この法蔵の呪文の直訳をもとに、日本人の高神覚昇師が素晴らしい意訳をしています。

なお、文章が過去形表現であることを記憶に留めておいてください。

  ・ 「自分も悟りの彼岸へ行った。人もまた悟りの彼岸へ行かしめた。普(あまね)く一切の人々を皆行かしめ終わった。かくてわが覚(さとり)の行(ぎょう)が完成した」

●大乗仏教の基本の考えは民衆救済です。「皆で一緒に救われよう」というものです。

●菩薩は「皆が救われるまで、自分も救われないで良い。苦しい世界で皆を救済する活動をし続ける」と決意したと言われています。皆が悟りの彼岸へ行き、救われたと分かったとき、菩薩は大感激し喜んだはずです。

●その理想の実現を高らかに宣言したのが、この呪文(マントラとも真言とも言う)であり、高神覚昇師の意訳です。

●そして、このサンスクリット語の呪文は、文法的に過去形と取ることも、未来形と取ることも可能です。そのため、サンスクリット語の元々の文章を過去形として扱わず、将来の希望として扱い、訳すことも可能と言われています。

●奈良の薬師寺の管主(かんす)だった高田好胤師は、般若心経の写経の納経料で薬師寺の伽藍を復興させた人として有名ですが、高田好胤師が「羯諦 羯諦・・・」の呪文を将来の希望として訳したものがあります。

  ・「行こう、行こう、さあ行こう、みんなで力を合わせ、心を合わせ、みんなで幸せの国を作りましょう。そして、みんなで幸せの国へ行きましょう。」

●高田好胤師の訳は「羯諦 羯諦(ぎゃてい ぎゃてい)」から始まって「波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい)」までのもので、「菩提薩婆訶(ぼうじそわか)」が入っていません。

そこで、高神覚昇師の解釈を踏まえ、高田好胤師の訳文を参考にし、「菩提薩婆訶」までを含めて私として呪文を訳してみます。

なお、菩提薩婆訶は神仏に願い事をする時の最後に唱える言葉で、意味合いは「わが捧げものをご嘉納あれ!」です。

●私訳

  ・「なろう、なろう、皆でなろう。皆が善い生き方をして、幸せになろう。思いは叶うぞ。うれしいなぁ!」

第4項 皆で幸せになる(私見)

●般若心経の呪文の一般的な説明で言われる「悟りの彼岸」とは、真理(善い生き方)を知り、実践して、幸せになることだと私は思います。

●「皆で幸せになる」ことは菩薩の切なる願いです。

● 「皆で幸せになる」という言葉には2つの重要な意味が含まれていると思います。

   ・1つは、「皆で一緒に幸福になってこそ、幸せを心の底から感じられ、喜べる」ということです。

   ・もう1つは、「皆で幸福になることが、幸せになる秘訣である」ということです。一部の人たちが幸せであっても、他の人々が不幸であったら、一部の人たちの幸せも長続きしないからです。

付録:もう少し知りたい

この第6回は、般若心経のキーワードである「『空』と『般若波羅蜜多』と『呪文』」について論じることが主眼です。

これまでの説明でほぼ理解いただけたかと思いますが、『呪文』については若干詳しい説明を追加で行います。題して「付録:もう少し知りたい」です。

●漢字の「呪(しゅ)」について

  ・日本では「のろい」「まじない」の意味に取られることが多いですが、「呪(しゅ)」には「いのり」の意味もあります。

  ・漢字の「呪(しゅ)」は、もともと漢字の「祝(しゅく)」、意味は(いわう、いのる)から出来たものです。

●般若心経の「呪」について

  ・呪はサンスクリット語のマントラを漢訳したもので、他に呪文、真言、祈りの言葉、真実の言葉、などと日本語訳されています。

●仏教学者の米澤嘉康氏による「真実語」の研究によれば、

  ・古代インドでは、「誓いを公言し、誓いをある期間実践すると、誓いが真実の言葉となり、願うことが叶えられる不可思議な力を得る」と思われていた、とのことです。

●ここから言えること(私見)は、「誓いを実行するという努力を前提にしなければ、願いを叶える不可思議な力は出てこない」、ということでしょう。

  ・繰り返しますが、「努力を前提にしなければ、願いを叶える不可思議な力は出てこない」、というところがポイントだと思います。

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