●聖徳太子の生まれ育った所と言われている場所
太子の生まれた所について、『日本書紀』には次のような内容が書いてあります。
「お母さん(用明天皇の皇后である穴穂部間人皇女)が馬の飼育をつかさどる役所に来られた時、厩の戸(入口)の所で、お苦しみもなく急に出産なさった」。
また、育った所については「お父さん(用明天皇)は太子を愛されて、宮の南の上殿(うえのみや)に住まわせられた」と記されています。
この記述を出発点にして太子の生まれ育った所を考えると、用明天皇の宮がどこにあったかが問題になります。
そして、宮の跡地の南側に上殿(うえのみや)と呼ばれるに相応しい高台があるのかがポイントになります。
用明天皇の宮は磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)ですが、ここの主な推定地は二か所あって、一つは奈良県桜井市谷の石寸(いわれ)山口神社、もう一つは橿原市東池尻町から桜井市池之内にかけての東池尻・池之内遺跡です。
●桜井市谷の石寸(いわれ)山口神社
隣接してある近鉄とJRの桜井駅から南の方角へ徒歩約十五分で石寸山口神社に着きます。
ここはかつて双槻(なみつき)神社と呼ばれていたこと、およびその南側一帯に上之宮という地名が残っていることから、磐余池辺雙槻宮の跡地ではないかと言われています。
石寸山口神社は全体にひっそりとした小さな神社です。
拝殿から奥を見ると数段の石段があり、両側に大きな根元をむき出しにした木が立っています。
石段の先に小振りですが綺麗な本殿が見えました。
神社の前には薦池(こもいけ)と呼ばれる静かな池がありますが、これは用明天皇の時の池ではなく、後世に作られた溜池のようでした。
石寸山口神社からさらに南へ歩き、安倍文殊院の前を通り過ぎて、上之宮遺跡へ行きました。
住宅街の狭い道ではなく、バスも走る分かり易い道を行きましたので約二十分かかりました。
上之宮遺跡は住宅街の中にあり、思っていたより小さいものでした。
道路に面したところ以外の三方は住宅がすぐ近くまで建っています。
遺跡入口の石には「上之宮庭園遺跡」と文字が彫られてありました。
公園内に立てられた説明板によると、この遺跡は古墳時代後期から飛鳥時代にかけての集落遺跡で、館の跡や石組の園池の跡が発掘されたそうです。
出土品には木簡や果物の種子などがありました。
上之宮という地名、建物の時期、貴重な出土品などから、ここが聖徳太子の育った上宮(かみつみや)であったのではないかとの説があります。
また、周辺は安倍文殊院や安倍寺跡があることからも分かる通り、豪族・安倍氏の勢力範囲の地域であり、上之宮遺跡は豪族の館の跡であるという見方もあります。
「上之宮庭園遺跡」には石組の園池遺構が復元されていますが、その遺構を見ながら、果たしてここは太子の育ったところなのかどうか考えました。
石寸山口神社が磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)だとしたら、ここ上之宮遺跡はちょっと離れ過ぎているように私には思えました。
●橿原・桜井両市にまたがる東池尻・池之内遺跡
近鉄大阪線の桜井駅から西へ一駅行くと大福駅があります。
そこから真南へ二十分弱歩いて東池尻・池之内遺跡に行きました。
この遺跡は古代に築かれた巨大な人工の池の跡です。
6世紀後半には戒外川(かいけがわ)の流れる谷を塞ぐ位置に堤が造られ、堤の南側(現在は水田)は池になっていたそうです。
堤の上(現在は畑や宅地)には6世紀後半から7世紀前半の建物などが数多く発見されました。
そのため、ここが『日本書紀』や『万葉集』によく出てくる磐余池(いわれいけ)にあたるのではないかと考えられています。
磐余池だとすれば用明天皇の磐余池辺雙槻宮はこの辺りにあったと推測され、聖徳太子の育った上殿(うえのみや)もそれほど遠くないところにあったはずとなります。
東池尻・池之内遺跡に立っている遺跡の説明板を丹念に読み、現地の情景をじっくりと見回してみると、一段低くなっている広い土地が池だったように思えてきました。
『日本書紀』の履中天皇の時期に磐余池を造ったという記述があること、および発掘の成果を踏まえると、ここが磐余池である可能性は高そうです。
あとは上殿(うえのみや)に相当するところが発掘・発見されるか、興味が持たれるところです。
古代に造成された堤の部分と思われるところを巡って西の方へ行くと、写真家の入江泰吉さんの書による万葉歌碑がありました。
かつて池だったと推定されている低地を臨む場所に、磐余(いわれ)の池の情景を詠み込んだ大津皇子の挽歌が彫られていました。
「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠れなむ」