●橘寺
近鉄吉野線の飛鳥駅で電車を降り、明日香村が運行する明日香周遊バスの「かめバス」に乘りました。
高松塚古墳や天武・持統天皇陵の傍を通って川原の停留所で下車すると、道路沿いに「佛法最初 聖徳皇太子御誕生所」と彫られた大きな石標が建っています。
石標を見て、南へ畑の中の緩やかな登り道を歩き出せば、すぐに白壁が横一線に伸びた美しい橘寺が目に入ってきます。
橘寺は、寺伝によると、欽明天皇の別宮があった所であり、そこで聖徳太子が生まれたとのことです。
しかし、発掘された瓦などから本格的に伽藍が整備されたのは飛鳥時代の後半と考古学的には考えられています。
つまり、太子が生まれた飛鳥時代前半にはしっかりした宮は出来ていなかったようです。
文献上では、『日本書紀』にも『上宮聖徳法王帝説』にも橘寺が聖徳太子の生まれた所であるとは書いてありません。
ただ、室町時代前期頃に成立した『南都七大寺巡禮記』には、橘樹寺(橘寺のこと)の往生院は「厩戸と號し」「太子誕生所なり」と書かれています。
橘寺の境内にある伽藍配置図には本堂の右下(東南)に往生院が描かれていました。
なお、平安時代中期に成立した『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』には、聖徳太子が橘寺で勝鬘経について講義をし、奇瑞が表れたと書かれていますが、これは後の世の太子信仰が書かせたものでしょう。
現在の橘寺には、奇瑞の関連物の「三光石」が境内にあり、説明表示がなされています。
●坂田寺跡
橘寺から東南方向へ20分ほど歩いて明日香村大字阪田(地名は「阪」田)にある坂田寺跡へ行きました。
坂田寺は渡来人の鞍作氏の氏寺で、法隆寺金堂の釈迦三尊像を造った鞍作鳥(くらつくりのとり。止利仏師)が建てたとも、鳥の親が建てたとも、また祖父が草庵を建てたのが始まりとも言われています。
実は、『聖徳太子伝暦』に用明天皇が賢い聖徳太子を可愛がって住まわせた宮の場所が坂田寺の所だったと書いてあるのです。
また、鎌倉時代の本『太子伝古今目録抄』に「橘寺の巽(たつみ。南東)の方に厩戸垣内(かいと)と云ふ処あり。
坂田寺の側なり」と書いてあり、ここが聖徳太子の生まれ育った所ではないかと言われているのです。
太子の誕生地と言われる橘寺の近くに「厩戸」という地名があることが興味深いです。
古代では住んでいた土地の名前を人名として付けることが多かったからです。
坂田寺跡は現在、発掘されたところも埋め戻され、「坂田金剛寺址」と彫られた石標と史跡説明板、そしてそれほど広くない空き地が民家の側にあるだけでした。
●分からなかった「太子の生まれ育った所」
文献と地名から聖徳太子の生まれ育ったところと言われている地を訪ねてみましたが、結局どこも「ここに違いない」という確信は持てませんでした。
候補地4か所を巡ってみての私の感想は、これと言った根拠はないですが、東池尻・池之内遺跡が一番それらしいかな、というものでした。
桜井や明日香の田舎の風景を眺めて、古代に思いを馳せる小旅行となりました。