●豊浦宮(とゆらのみや)跡
額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は敏達天皇の皇后でしたが、敏達天皇の逝去により西暦592年に天皇位に就き推古天皇となります。
天皇になった時の宮が豊浦宮で、603年に小墾田宮(おはりだのみや)へ遷るまで、ここで主要な政策が実行されました。
具体的には、仏教興隆の詔が出されたり、法興寺(現在の飛鳥寺)が建てられたり、新羅征討の軍が発せられたりしました。
宮が小墾田宮へ遷った後、豊浦宮は寺になり、豊浦寺と呼ばれるようになりました。
豊浦寺跡を訪ねると、現在は向原寺(こうげんじ)という浄土真宗の寺になっていました。
寺の前には地色が白っぽく変色して白い文字が若干読みづらい「豊浦寺跡」の説明板がありました。
また、向原寺の門札には「日本仏法根元寺院最初 太子山向原寺」と書いてあります。
馬子の父の蘇我稲目が百済から献上された仏像をもらい受けて、蘇我の向原(むくはら)の家を寺にしたという記録がありますから、日本仏法根元寺院最初という表現がされ向原寺(こうげんじ)という名前が付けられたのでしょう。
向原寺境内からは豊浦宮跡の殿舎と考えられる掘立柱建物が発掘されていて、現在それを見学することが出来ます。
豊浦宮跡(現在の向原寺)は、近鉄南大阪線の橿原神宮前駅から明日香村周遊バスの「かめバス」に乘ってほぼ東に約7分行き、「豊浦」バス停で降りるとすぐ側にあります。
●小墾田宮(おはりだのみや)跡と言われていた古宮(ふるみや)遺跡
古宮遺跡は豊浦宮跡のすぐ近く、「かめバス」の停留所で言うと「豊浦」から1つ橿原神宮前駅寄りの「豊浦駐車場」の所にあります。
バス停の名前通り、そこそこの広さの駐車場があるのですが、その東北端に「古宮遺跡(小墾田宮推定地)」の説明板が立っています。
説明板によると、ここ古宮遺跡は推古天皇の時代と奈良時代・平安時代の3期の遺跡が発掘され、これまで小墾田宮の推定地とされてきたとのことです。
しかし1987年に雷東方遺跡で「小治田宮」と墨で書かれた土器が多数見つかって、それからは小墾田宮の有力推定地は雷東方遺跡の方になったとのことです。
遺跡は発掘の後に埋め戻されて、現在は一帯が駐車場と田畑になっています。
ただ、辺りを眺めていると、ここが小墾田宮の跡だと長らく思われていたのも頷けるような気がしました。
平坦地であり、7世紀前半の遺跡が発掘され、古宮という小字名が残っています。
そして「古宮土壇」と呼ばれる土の壇があり、1本の古木が斜めに生えています。
この木が畝傍山を背景にして立っている姿は絵になり、古代へ誘われるようでした。
田に水が張られた夕暮れ時に来たら素晴らしい写真が撮れそうな気がしました。
●小墾田宮跡として有力視されている雷東方遺跡
古宮遺跡から飛鳥川を渡って東へ歩き、雷丘(いかづちのおか)を左に見て、雷東方遺跡へ行きました。
遺跡紹介の地図では確かにこの辺りが雷東方遺跡の場所のはずなのですが、遺跡の痕跡が何も見当たりません。
広々とした田畑があるだけで建物は勿論、石碑も説明板もないのです。
痕跡を探して田畑の中の道を行ったり来たりしていた私の頭上高くで、雲雀が細かく羽ばたきながら鳴いていました。
雷交差点へ戻ってきた時、そこの地図標識に「現在地」と「雷東方遺跡」の文字を見つけました。
遺跡の場所は今いる所で間違いなかったです。
「雷東方遺跡」を示すものはこの地図標識しかないのだと思い、残念な気持ちでその写真を撮りました。
小墾田宮では冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、小野妹子を正使とする遣隋使派遣などの重要施策が行われました。
●明日香村埋蔵文化財展示室で見たもの
雷交差点から南へ数分歩くと明日香村の農産物等を販売している店「あすか夢の楽市」があります。
そこで苺を買い、店の前のベンチに座って「かめバス」の来るのを待っていました。
その時、ふと目に留まったのが「明日香村埋蔵文化財展示室」という看板です。
「あすか夢の楽市」に隣接する木造の建物に看板がかかっています。
こんなものがあったのかとビックリしました。
近付いてみると入場無料とのことです。
バスの来る時刻にはまだ間があるので見学しようと建物の中に入りました。
展示物を順に見て行って、眼を見開きました。
そこには「小治田宮」と墨書された土器が2つ展示されていたのです。
あの雷東方遺跡で発見され、そこを小墾田宮の推定地として最有力にした記念碑的な土器です。
しかも模造品と掲示されていませんから本物です。
そして展示室の中を十数歩行ったら、今度は井戸の木枠が展示されていました。
先ほどの土器が発見された井戸の木枠だそうです。
年輪年代測定法によって奈良時代後半のものと分かったとのことです。
このことから雷東方遺跡が奈良・平安時代の「小治田宮」の跡であり、飛鳥時代の小墾田宮の跡でもあろうと推測されるようになったのです。
雷東方遺跡の痕跡が地図標識以外に見つけられなくて残念がっていた私は、「小治田宮」と書かれた土器とそれが発見された井戸枠の両方の現物を見て、大きな満足感に浸りました。