●叡福寺のある場所
叡福寺は大阪府南河内郡太子町(たいしちょう)にあります。
太子町は奈良県境の生駒・金剛山地の西麓にあって、日本最古の官道と言われる竹内街道が通っています。
太子町のある辺りは磯長谷(しながだに)と呼ばれ、敏達・推古・用明・孝徳の四人の天皇の古墳があるとされているところです。
叡福寺の境内には叡福寺北古墳、一般に聖徳太子の墓と言われている磯長陵があります。
私は近鉄・南大阪線の「上の太子駅」で電車を降り、歩いて叡福寺へ行きました。
道路は「太子中央線」と名付けられ、途中の交差点名称は「聖和台」、公園は「太子・和みの広場」と、太子関連オンパレードです。
●叡福寺の境内
叡福寺の正面入口とも言うべき南側の空き地には大きな石柱が建っていて、「聖徳皇太子磯長御廟」と彫られています。
石段を登ったところにある南大門には、岸信介・元首相の書による「聖徳廟」の額が掲げられています。
南大門をくぐり、金堂その他の建造物を横に見ながら真っ直ぐに北へ向かうと、小山の先端部分に叡福寺北古墳がありました。
聖徳太子の墓として宮内庁が認定しているもので、古墳の開口部には唐破風(からはふ)屋根の覆屋が取り付けられています。
境内にある説明板には「聖徳太子の御廟」の説明が書いてありました。
それによると、一つの廟に三つの棺台があったとのことで「三骨一廟」と言われ、聖徳太子のお母さんの穴穂部間人皇女、聖徳太子、太子の妃の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)が眠るとのことです。
私は、正妃でない菩岐々美郎女が太子と一緒に埋葬されることはないと思っていますので、この説明板の内容には納得がいきませんでした。
合葬されているのは菩岐々美郎女であるという確たる証拠は叡福寺にもありませんでした。
●叡福寺にあった、二つの意外な物
<太子廟窟偈>
叡福寺北古墳、いわゆる聖徳太子御廟の右手へ回り込んで行くと「太子廟窟偈」という石碑がありました。
漢文が彫られているのは分るのですが、石が摩耗して読むことは出来ません。
傍に立ててある説明板には次のように書かれていました。
「聖徳太子が遺言の形として記された偈文。(中略)一度この御廟を参詣すれば極楽浄土へ行けるとも説かれている。」
聖徳太子が「この御廟を参詣すれば極楽浄土へ行ける」と遺言するなどとは思えませんから、おかしな話です。
太子の死後、太子信仰が盛んになり、各種の伝承が伝わっていますから、これはその類でしょう。
<五字ヶ峰>
「太子廟窟偈」の石碑のある方向とは逆に、聖徳太子御廟の左手へ回っていくと「五字ヶ峰」の説明板があります。
そこには「直進」という方向指示とともに次の文が書かれていました。
「太子が黒駒に乘り、全国を行脚している道中、富士山頂に至った折、西方より五色の光を見出された場所。」
太子が馬に乗って富士山頂に至ったなどというのも有り得ない話ですから、これも荒唐無稽な伝承でしょう。
●なぜ「聖徳太子の墓」と言われているのか?
太子廟窟偈の説明も五字ヶ峰の説明も信じられない話です。
これらの伝承を堂々と掲示している場所が、なぜ「聖徳太子の御廟」と言われているのか調べてみる必要があると思いました。