聖徳太子が斑鳩と飛鳥の間を通った道について記事と写真を掲載いたします。
(コロナ感染防止のための外出自粛により取材が出来ず、太子のお墓の話の後に当記事の掲載となりました)
●大和の古道
奈良盆地には古代に作られた道が今も残っています。
歴史の古い順に主な道を挙げますと、
①三輪山々麓から平城山(ならやま)へ南北に延びる有名な「山の辺の道」、
②飛鳥と和歌山をつなぐ「紀路(きじ)」、
③斑鳩(いかるが)と飛鳥を結ぶ筋違道(すじかいみち)、
④現在の桜井市から葛城市へと奈良盆地を東西に走る横大路、
⑤三本の平行した南北道の上ツ道・中ツ道・下ツ道、などです。
それら大和の古道の中で聖徳太子が行き来した道として知られているのが筋違道(すじかいみち)です。
斜めに走る道なので、家の柱と柱の間に斜めに入れる材からその名が付けられました。
また、太子が往来したという伝承から太子道(たいしみち)とも呼ばれています。
●太子道(筋違道)についての考察
『日本書紀』によれば、聖徳太子は斑鳩に宮を造り、そこへ移り住んだことになっていますが、当時の政治の中心は飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)であり、太子が斑鳩に行ったのは時々であったはずと私は思っています。
そして太子道(筋違道)は政治の中心地・飛鳥と交通の要衝・斑鳩とで連携して統治をしていくために作られた道だと考えています。
これらの点については当ホームページの過去の記事「2つの法隆寺」(2020-10-10掲載)に詳しく書いていますので、関心のある方はそちらをご覧になって下さい。
●太子道の面影を求めて歩く(現在の川西町と三宅町)
近鉄・橿原線の結崎駅で電車を降り、太子道の面影が感じられるという川西町と三宅町の太子道を歩いてみました。
川西町役場前を通って糸井神社へ行き、桜井市の多武峯(とうのみね)から流れてきている寺川を渡りました。
そうすると太子道の標識があり、ほどなく白山神社に着きました。
●白山神社の「太子道を往く聖徳太子」の像
白山神社には黒駒に乗って「太子道を往く聖徳太子」の像があります。従者の調子麿(ちょうしまろ)が黒駒の手綱を持っています。
昼間の強い逆光の中で見上げたその像は、黒駒だけでなく全体が黒く見えました。
像の隣に立っていた説明板に興味深いことが書いてありました。
昭和5年にこの地に「黒駒に乗る太子銅像」が建立されたが、第二次大戦の金属類の献納で銅像がとりはずされ台座だけが残ったとのことです。
現在は上述したように「太子道を往く聖徳太子」の像が建っていますが、戦争による金属類の献納の爪痕がここにもあったのです。
斑鳩にあって聖徳太子と関係の深い法輪寺は、三重塔に取り付けてあった避雷針を第二次大戦のために献納(供出?)して、その後の落雷で三重塔が焼失したのでした。
今は法輪寺の三重塔は再建され、白山神社の「黒駒に乗る太子銅像」は「太子道を往く聖徳太子」の像として蘇りましたが、「和を以って尊しと為す」と述べた聖徳太子関連のものが戦争の影響を受けているのです。
●三宅町に残る聖徳太子の伝承
白山神社には聖徳太子が休憩したという「腰掛石」もあります。
また道路を挟んで向かい側の屏風杵築神社(びょうぶきづきじんじゃ)には太子が弓で地面を穿(うが)つと水が出たという「屏風の清水」の伝承があります。
そして屏風という地名は、昔、太子が休憩している姿を村人が見るのは恐れ多いとして、太子の周りに屏風を立てたというところから来ている、との伝承もありました。
日頃は伝承にはあまり興味を感じない私ですが、三宅町の太子道沿いには聖徳太子の伝承があちこちにあり、道の存在も確かであることから考えると、これらの伝承は全くの作り事とも言えないような気がしてきました。
●太子道の道路標識と忍性菩薩誕生地の石碑
白山神社と屏風杵築神社の参拝・見学を終え、太子道を南東へ歩いて行きました。
道沿いに聖徳太子関連ではないですが一つ注目するものがありました。
それは鎌倉時代に、貧民救済に多大な貢献をしたと言われる忍性菩薩の誕生地の石碑です。
その石碑が見えるところに太子道の道路標識が立っているのが、聖徳太子と忍性菩薩の「仏教での繋がり」を示しているように感じられました。