●来目皇子は征新羅大将軍
『日本書紀』によれば、来目皇子は朝鮮半島にあった日本の拠点の任那(みまな)を復興させるため、新羅(しらぎ)を討伐する征新羅大将軍に任命されます。
そして二万五千の兵を率いて筑紫(現在の福岡県)へ遠征し、そこで病没します。
●福岡県糸島市の来目皇子遺跡
福岡県の西部にある糸島市の小山の中腹に来目皇子遺跡があります。
ここは来目皇子に率いられた軍が駐屯した所とも皇子が亡くなった所とも言われています。
今は木々に囲まれていますが、来目皇子が来た当時は朝鮮半島へ至る海が見渡せたのだろうと思います。
現地には糸島市の「来目皇子遺跡」の説明板が立てられていました。
●山口県防府市の仮埋葬地
来目皇子の遺骸は周防の娑婆(すおうのさば。現在の山口県防府市)まで運ばれ、そこで仮埋葬が行われました。
なぜ飛鳥もしくは河内まで一気に運んで本葬をしなかったか、私には疑問が残りました。
本当に来目皇子は筑紫で亡くなったのだろうか、娑婆の近辺で亡くなったから娑婆で仮埋葬したのではないか、という疑問です。
宮内庁の判断によれば、来目皇子の仮埋葬地は防府市の桑山(くわのやま)の頂きとされています。
山頂にある大きな岩石群の前に石の祠があり、「来目皇子仮埋葬地」の立て札が添えられています。
桑山の頂きから飛鳥のある東の方を眺めれば、瀬戸内海と小山、そして遠方の陸地が見えました。
来目皇子はこのような景色を見たのだろうか、おそらく見れなかっただろうな、飛鳥に生きて帰れなかったのは残念だっただろう、と思いました。
なお、この仮埋葬地は古墳から出土した遺物を再度埋めた場所です。
桑山の中腹に桑山塔ノ尾古墳というものがあり、そこから江戸時代に発見された貴重な遺物を桑山山頂に再度埋納したのです。
斎藤貞宣という人が『桑山古墳私考』という書物に遺物を図示し、桑山塔ノ尾古墳が来目皇子の仮埋葬地であるという説を述べました。
宮内庁の上記の判断はこの斎藤貞宣の説の延長線上にあるものと言えそうです。
●大阪府羽曳野市の本葬地
来目皇子の亡骸は周防の娑婆から河内の埴生山(現在の大阪府羽曳野市)へ運ばれて本葬されました。
墓地は現在、塚穴古墳とも来目皇子埴生崗上墓(はにゅうのおかのえのはか)とも呼ばれています。
なぜ、飛鳥ではなく河内のこの地へ本葬されたのか、古代史に詳しい知人に聞いてみました。その答えは次の3点でした。
① 古代では大阪湾が現在の大阪府の内陸部まで出張っていたため、船で遺体を運んできて設置するのに近くて良い場所であった。
② 飛鳥から難波(なにわ)に通じる竹内街道の側であり、行き易い。
③ 蘇我氏によって当時は大溝と呼ばれた運河が造られ、川でも飛鳥と結ばれていた。これを聞いて私は納得しました。
●パティスリー・フラワーでの休憩と窓からの眺め
来目皇子埴生崗上墓の見学をした後、羽曳野市軽里にあるパティスリー・フラワーという店でコーヒーを飲み美味しいケーキを食べました。
竹内街道沿いの店です。
大きな窓ガラス越しに芦が池と二上山が見えました。
奈良県人の私はいつも二上山を西の方角に見ているのですが、ここからは東の方に見えて新鮮でした。
また、芦が池は蘇我氏が造った大溝の雰囲気を感じさせてくれ、古代に誘われました。