●諸法無我

日本では通常、「法」というと「法律」を連想します。

また、「無我」というと、「我が無い、我意(わがまま)がない、無心」の意味のどれかと受け取られます。

しかし、諸法無我の法と無我は上記の意味ではないので、一般の日本人には理解が難しいです。

●諸法無我の意味

結論から言いますと、諸法無我の意味は、「全てのものは(ものは全て)我のものに非(あら)ず」です。

ものは全部が我のものではないということで、分かり易い四文字熟語にすれば「万物非我」です。

言葉を分解して説明します。

諸は、もろもろ、全て、の意味です。

法は、ここでは「もの、事物」の意味です。

なお、法については後で多少詳しく補足説明します。

無我は我のものに非(あら)ず、の意味です。

補足説明 ①

仏教経典が書かれた古代インドの言葉であるサンスクリット語では、「法」の原語はdharmaダルマで、元々の意味は「保つ、保つもの、人を人として保つもの」です。

ここから、下記の多くの意味を持つようになり、いろいろな場面でそれぞれの意味で使われるようになりました。

規範、義務、法律、善い行為、真理、法則、宗教、それらについて説かれた教え、「法」によって作られた事物。

日本では主に法が「法律」の意味で使われていますが、諸法無我では「事物・もの」の意味で使われていることになります。

補足説明 ②

「我」のサンスクリット語の原語はãtmanアートマンで。これに否定の接頭辞anを付けたのが、「無我」の原語のanãtmanアナートマンです。

否定の接頭辞を「無」ととらえ「無我」と訳されましたが、これは「非我」(何かが我なのではない)と訳されるべきものです。

この主張は仏教学者の植木雅俊氏がなされていて、私もこの説だと「諸法無我」の意味がスムーズに理解出来ました。

「非我」(何かが我なのではない)とは、何かのものを自分として、または自分のものとして、思い込み、それに執着してはいけない、と戒めることに結びつく言葉です。

●諸法無我で仏教が言おうとしている事(1)

「諸法無我」の意味は「全てのものは我のものに非ず」ですが、この「全てのものは(ものは全て)我のものに非ず」という考えはどういうところから来たのでしょうか?

それは、仏教では「もの」と「自分」との関係を次のように考えたところから来たと考えられます。

「もの」は単一のものではなく、いろいろな小さな物質の基本要素が組み合わさって出来た集合体です。

「もの」は、お互いに原因になり、縁(影響を与えるもの)になり、結果になって、絶えず変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がないのです。

そのため、何かの「もの」が絶対的に存在して、それが「自分」であったり、「自分のもの」であったりとは言えませんから、執着してはいけないということになります。

なお、原因、縁、結果は、それぞれの言葉から一文字を取って因縁果(いんねんか)と総称されています。

●諸法無我で仏教が言おうとしている事(2)

「絶えず変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がない」ということは、次のことも言っていると考えられます。

人間も「もの」であり、いろいろな小さな物質の基本要素が組み合わさって出来た集合体です。

それが因縁果で絶えず変化し、それ自身の性質(固定的な本質)がないということは、人間はお互いに基本要素が混ざり合っているということです。

つまり人間は共通する構成物質で出来ている、いわば仲間であり、相争うべき性質のものではないと言えます。

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