●「涅槃寂静の意味と語源」の通説
通説をまず述べます。「涅槃(ねはん)」という言葉は、通常、次の2つの意味で使われています。
1つめは、釈迦の入滅。死亡のことです。
2つめは、燃え盛る煩悩の火を吹き消して、悟りの智慧を獲得した境地のことです。
この2つめが涅槃寂静の時の涅槃の意味です。
「寂静(じゃくじょう)」という言葉の意味は、
1つめは、もの静かなさまのことです。
2つめは、煩悩を離れ、苦しみを滅して、真理に達した涅槃の境地のことです。
この2つめが涅槃寂静の時の寂静の意味です。
つまり「涅槃」も「寂静」も意味は同じで、「煩悩を離れた悟りの境地」ということです。
涅槃寂静は同じ意味の言葉の涅槃と寂静を2つ一緒にして、意味を強調したものです。
通説では涅槃の語源を次のように捉えています。
涅槃のサンスクリット語(古代インドの言葉で、仏教経典が書かれた言葉)はニルヴァーナです。
ニルヴァーナの語源は一般にニル・ヴァー(吹いて、なくす)と言われています。
そして、そこから、涅槃は「燃え盛る煩悩の火を消して、悟りの智慧を獲得した境地」と解釈されています。
●「涅槃寂静の意味と語源」の異説
次に異説です。
異説では、涅槃の意味は「心を覆うものがない解放された状態」のことです。
寂静の意味には「もの静かなさま」というものがありますから、涅槃寂静は「わだかまりが無く、精神が解放されて静かに心落ち着いたさま」と理解できます。
異説では涅槃の語源を次のように捉えています。
ニルヴァーナ(涅槃)の語源は通説のニル・ヴァー(吹いて、なくす)ではなく、ニル・ヴリ(覆いが無い)です。
この解釈は空海、宗教学者の松本史郎氏、僧侶の宮坂宥洪師、外国のパーリ語(サンスクリット語の俗語)の研究者などが支持しています。
●施身聞偈(せしんもんげ)
涅槃寂静に関連して思い出す言葉が「施身聞偈」です。
施身聞偈とは、雪仙童子(せっせんどうじ)が鬼の唱えている偈(仏の教えや徳を称える韻文)を聞きつけ、続きの偈を聞くために、自らが鬼の餌食になることを約束して、それを実行するという話の中で書かれている韻文のことです。
その偈文は「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽(しょぎょうむじょう ぜしょうめつほう しょうめつめつい じゃくめついらく)」です。
施身聞偈の話の情景が、奈良県斑鳩の法隆寺の「玉虫厨子」の側面に絵として描かれています。
施身聞偈の私の解釈は次の通りです。
偈文と意味を対照して書きます。
諸行無常・・・全てのものは変化・生滅します。
是生滅法・・・変化・生滅が世の法則なのです。
生滅滅已 寂滅為楽・・・そのことを悟り、欲望や執着から解き放たれた時、心は安らかになるのです。
なお、悟りとは知り、納得し、受け入れることです。
また、生滅滅已と寂滅は共に欲望や執着から解き放たれたことです。
●涅槃寂静と施身聞偈
「涅槃寂静」は通説・異説のどちらの解釈でも、「施身聞偈」の後半部の「生滅滅已 寂滅為楽」と意味はほぼ同じです。
ちなみに、もう一度それぞれの意味を見てみましょう。
涅槃寂静の通説の意味は、煩悩を離れた悟りの境地です。
異説の意味は、わだかまりが無く、精神が解放されて静かに心落ち着いたさまです。
施身聞偈の後半部の意味は、(前半部分のことを悟り、)欲望や執着から解き放たれた時、心は安らかになるです。
このことからどんなことが言えるかと言いますと、涅槃寂静と施身聞偈の後半部分は意味がほぼ同じなのだから、施身聞偈の前半部分も涅槃寂静に当てはまることになる、ということです。
結果、涅槃寂静も次のように解釈できます。
諸行無常・・・全てのものは変化・生滅します。
是生滅法・・・変化・生滅が世の法則なのです。
涅槃寂静・・・そのことを知り、納得して受け入れると、欲望や執着から解き放たれ、心安らかになるのです。
●仏教が「涅槃寂静」で教えようとしていること
これまでの説明から、仏教が「涅槃寂静」で教えようとしていることは、次のことだと言えます。
全てのものは変化・生滅します。変化・生滅が世の法則であることを知り、納得して、受け入れると、精神が解放され心が落ち着くのです。
宇宙の理(ことわり)、自然の摂理というものを知り、受け入れることの大切さを教えています。
なお、宇宙の理を知り、それに身を委ねることは最も重要な認識ですが、これは運命論者になることとは異なります。
後日、少し詳しく述べる積もりですが、仏教は行動、実践を推奨しているからです。