●自灯明、法灯明とは

「自灯明、法灯明」とは、釈迦が亡くなる前に弟子のアーナンダに伝えた教えで、釈迦の遺言とも言えるものです。

アーナンダが「師匠のお釈迦様が亡くなったら、その後は何を頼りにしていけば良いのですか?」と釈迦に尋ねました。

釈迦の答えのエッセンスは、「自分をたよりなさい。

法をよりどころとしなさい」というものでした。

釈迦の答えの本来の文章は次の通りです。

「自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。」

●「島」と「よりどころ」

なぜ「(自らを)島とし、(自らを)たよりとして」、「(法)を島とし、(法)をよりどころとして」と述べているのでしょうか?

それはこういう事情からです。

釈迦が説法していたインド北部地域は雨季(8月頃)に一面が大洪水になり、家も畑も水につかります。

そんな時は、小高い丘が島となって人々の避難所になります。

島が頼れるところになるのです。

その生活実感から、たよるものとしての「自ら」や、よりどころとしての「法」を、「島」と譬えたのです。

●「自らをたよる、法をよりどころとする」とは

「自らをたよりとする」とは、一人の人間として自立した生き方をすることです。

具体的には、他者に迎合したり、隷属したり、依存したりしないことです。

ここでの「法」の意味は、「真理(普遍的に正しいこと)」、「人間として生きてゆくための規範」です。

そのため、「自らをたよる、法をよりどころとする」とは、他者に頼らず自立して、普遍的に正しいこと、人間としての規範を、自分としてしっかり持って、それを依り所として生きてゆくことを意味しています。

●「自灯明、法灯明」は誤訳の産物

「自灯明、法灯明」とは、「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(真理)を灯明とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」という教えです。

本来は「自らを島とし・・・、法を島とし・・・」と訳されるべきところのものです。

しかし、サンスクリット語で島を意味する「dvipa」と、パーリ語などの俗語で灯明を意味する「dipa」が似ているため、漢訳者が誤訳したものと考えられています。

●誤訳でもイメージが合う「自灯明、法灯明」

灯明を「灯り、松明(たいまつ)」と解釈すれば、誤訳であっても、「自灯明、法灯明」は本来の意味にほぼ合致していると私は思います。

「灯り、松明」が暗い夜道を導いてくれるように、「自らを灯りとし、法を灯りとしてゆく」と受け取れます。

インド北部の大洪水の状態と、そこでの「島」の有難さが分かりづらい日本人には、「自灯明、法灯明」の方がかえって良いように思えます。

●付録の話:「人」と「法」との関係性

繰り返しになりますが、「自灯明、法灯明」とは、「他者に頼らず、普遍的に正しいこと、人間としての規範を自分がしっかり持って、それを依り所として生きてゆくこと」の大切さを教えたものです。

その点を押さえれば「自灯明、法灯明」の学びとしては良いと思いますが、付録としてもう一歩深掘りした考えを示しておきます。

「自灯明、法灯明」の教えを深掘りした考えとして言われる事は、「人(にん)」と「法」の一体化です。

つまり、他者に頼らず、自分が一人の人間として、法(普遍的に正しいこと、人間としての規範)を自覚し、実践することで、法は人によって体現化されます。

それが「人と法の一体化」です。

人が法を自覚し実践することで、人としてより良い存在、より高度な存在、より完成に近づいた存在になると考えられているようです。

そして法もまた、人の実践によって、生きた価値のあるものになるのでしょう。

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