●仏教と「死」

仏教は宗教ですから死について多くのことが述べられているはずと思っていましたが、調べてみたら実は意外と述べられていることが少なかったです。

仏教の創始者である釈迦が、死後のことについてほとんど語っていないのです。

そのため、現時点で知っている「仏教に出てくる死に関する事柄」を挙げて整理してみます。

そして「死」について自分なりの考えを持てれば良いなと思いますが、「死」は人生の一大事ですから、そう簡単には結論が出ないでしょう。

今後時間をかけて、「仏教に出てくる死に関する事柄」をベースにして、「死」について考えていくようにします。

●「仏教に出てくる死に関する事柄」

私が現時点で知っている「仏教に出てくる死に関する事柄」を列挙すると次の通りです。

① 四苦八苦の「生老病死」

② 仏教説話で「死人の出ていない家は無い」という話

③ 昔よく言われた「死後は天国か地獄へ行く」という話

④ 六道輪廻(ろくどうりんね、りくどうりんね)

⑤ 倶会一処(くえいっしょ)

⑥ 生死一如(しょうじいちにょ)

⑦ 十二支縁起と死

⑧ 釈迦は死後について、ほとんど語っていない

それぞれについて内容を見ていきましょう。

●生老病死

苦しい状態を表す言葉に「四苦八苦」というものがありますが、この言葉の元は仏教です。

八つの苦しみがあると仏教では言っているのですが、「四苦」に焦点を当てれば、

四苦とは、

生苦(しょうく。生まれる苦しみ)、

老苦(老いる苦しみ)、

病苦(病む苦しみ)、

死苦(死ぬ苦しみ)

の四つです。

それぞれの最初の文字を並べて「生老病死」と表現されています。


ところで、仏教の経典が書かれたサンスクリット語(古代のインド語)では、「苦」はダッカ(duhkha)で、元々の意味は「意の如くならないこと」です。

つまり、生老病死は「意の如くならない、思い通りにならない」ことと解釈できます。

「なぜ意の如くならないか?」と考えてみますに、おそらく諸々のことが変化していくからでしょう。

私にはそう思えます。

●死人の出ていない家は無い

仏教説話に以下のようなものがありました。

・キサーゴータミーという若い母親が、可愛い子供を亡くして嘆き悲しみます。

・その若い母親は釈迦に子供を生き返らしてほしいと頼みます。

・釈迦は生き返らす薬を作るために芥子の実をもらってくるよう、母親に言います。

・ただし、芥子の実はこれまでに死人の出ていない家からもらってくるように。そうでないと薬にならないと話します。

・母親は必死に何軒もの家を巡って芥子の実を求めましたが、死人の出ていない家は一軒もありませんでした。

・そこで、母親は「死が避けられない」ことを知ったのでした。

●死後は天国か地獄へ行く

かつて日本では、「人は死んだら、天国か地獄へ行く。どちらへ行くかは、生きている時の行いの善悪による」とよく言われていました。

これは次に述べる「六道輪廻(ろくどうりんね)」の考えを単純化し、分かり易く述べたものです。

生まれ変わりの考えに倫理観を結び付け、善い行いを勧めていたものと思われます。

●六道輪廻(ろくどうりんね)

釈迦は死後に関して自らの考えを述べていません。

釈迦が亡くなった後、ヒンズー教の「輪廻(りんね)」思想が仏教に入りました。

輪廻とは、生ある者が生死を繰り返すことです。

生まれ変わる場所として十の世界(十界。じっかい)があるとされました。

地獄界、

餓鬼界、

畜生界、

修羅界、

人間界、

天上界、

声聞界、

縁覚界、

菩薩界、

仏界、

です。

このうち、地獄界~天上界までの六界(六道)に、ほとんどのものは無限に生死を繰り返すとされ、それが「六道輪廻」と言われました。

そして古代インドでは、無限に生死を繰り返す輪廻から脱却することが望まれました。

●倶会一処(くえいっしょ)

倶会一処とは阿弥陀経で説いている教えです。

民衆に極楽浄土へ生まれるよう願うことを勧めています。

その理由は、浄土の仏・菩薩たちと倶(とも)に一つの処で出会うことが出来るからとのことです。

倶会一処の「一つの処」とは浄土のことを意味しています。

愚考と言いますか、私の拙い考え、感じることを述べますと次の通りです。

上記の「浄土の仏・菩薩たち」を、既に亡くなっている親しい人たち(例えば、父母、兄弟、友人など)と考えれば、「死」を恐れないで、楽しみもあると感じられるようになるのかもしれない、と思います。

●生死一如(しょうじいちにょ)

生死一如とは、「生と死は一つのもの」という意味です。

そして生死一如に関して仏教界で一般に言われていることは、次の通りです。

・生きているものは死にます。

・死ぬということは、それまで生きていたということです。

・死があることによって一所懸命に生きようとします。

・死を受け入れ、死の準備をして、精一杯生きて行くことが大切です(と説いています)。

愚考。ふたたび私の拙い考えですが、私はこのようにも思います。

・生と死は繋がり、影響し合っているから、「生と死は一つのもの」と言われている 面もあるのではないでしょうか?

・生死が繋がっていず、一つの延長線上にない(本質的に同じものでない)とすれば、これまでの無数の命の誕生と死亡はなかったように思うのです。

●十二支縁起と死

十二支縁起とは、人の心に苦しみが生じるメカニズムを十二段階で説明したものです。

十二段階の説明の出発点は無明(苦悩の原因は因果の道理に対する無知)で、終着点は苦悩の最たるものの老死(老い死にゆくこと)と述べられています。

十二支縁起の十二の段階を逆に遡って原因を解決して行けば、苦悩は無くすることが出来ると説いています。

なお、十二支縁起の「支」のそれぞれの意味については後日学習の予定です。

●十二支縁起と循環生成

脳科学者の浅野孝雄氏が下記の説を述べています。

・十二支縁起は直線的因果関係ではなく、循環的(円環的)因果関係として把握するべきです。

・十二支縁起の「支」は、原語のサンスクリット語で「ニダーナ(ni-dãna)」といい、「次の原因となる」ことを意味しています。 

・直線的因果関係では最後に来る「老死」も、循環的因果関係では十二番目の「支」として、「次の原因、つまり最初の無明の原因となる」と考えます。

 (なお、循環的因果関係では最後とか最初とかの順番も無意味になると、私=鏡は考えます)

・十二支縁起を循環的因果関係と捉えると、古代に認識されていた「自然の循環生成」の考えと重なり合います。

 (「自然の循環生成」とは、自然に多く見られる年々の繰り返しや種々のものの繰り返しのことと私=鏡は推測しました)

●釈迦は死後についてほとんど語っていない

「生命は死に終わる」と仏典に書かれています。

「命あるものは必ず死ぬ」というのが、釈迦の考えであり、古代インドでの一般的な考えでした。

 しかし、釈迦は霊魂や死後のことなどについて、ほとんど語っていません。

霊魂や死後の話などは、無益で、真理に合致していない抽象論だというのが、その理由です。

またまた愚考で恐縮ですが、釈迦は、この世で現実に苦しんでいる民衆を救うことが大切、と思っていたのではないでしょうか?

・「現世の利益を訴えるのは低俗な宗教だ」という意見をときどき聞きますが、本当にそうでしょうか?

・仏教を始め多くの宗教は、現実の苦しみから人々を救おうとして発生してきたのではないでしょうか?私にはそんなふうに思えてなりません。

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