●「聖徳太子 本当はこうだった!?」シリーズ
昨年(2024年)の11月に朝皇龍古さんとの共著本『対談:本当はどうだったのか 聖徳太子たちの生きた時代』を出版しました。
その本の一部を、このホームページで「聖徳太子 本当はこうだった!?」シリーズとして簡潔に紹介しようと思います。
なお、このシリーズ記事は共著本の要約ですので、記事の中に出てくる「私は〇〇と思う」や「私見」は朝皇龍古さんと鏡清澄の共通の見解と捉えて下さい。
●はじめに
聖徳太子は日本の歴史上の人物で人気ランキング第1位です。
冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使、仏教興隆など多大の業績をあげた人物です。
しかし一方では、一度に十人が話すのを聞いて内容が分かったとか、馬で空を飛び富士山に登ったとか、信じられない伝承があります。
荒唐無稽な話は別にして、聖徳太子はどんな人だったのか、次の4つの疑問点について多くの資料から答えを求めていきます。
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
疑問2:聖徳太子はなぜ斑鳩に宮を建て移住したのか?(移住したとされているのか?)
疑問3:聖徳太子と一日違いで亡くなった王后は誰か?
疑問4:聖徳太子はなぜ三経義疏を執筆したのか?
●第1回:疑問1の(1)
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答は、厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったです。
●●理由①
その理由としては、『日本書紀』に書かれている内容から、厩戸皇子は政治の責任者であり、大王(天皇)であったといえるためです。
『日本書紀』には厩戸皇子が天皇の業務を行なったと書かれています。
推古元年(西暦593年)の4月のところには、「厩戸皇子に一切の政務を執らせて、国政をすべて委任された」と記載されています。
国政をすべて行うのは、通常、大王の役割でしょう。
また、用明元年(西暦586年)の正月のところには「(厩戸皇子は)国政をすべて執り行って“天皇事(みかどわざ)したまふ”と記されています。
“天皇事(みかどわざ)したまふ”は一般に「天皇の代行をなさった」と現代語訳されています。
しかし私は、“天皇事(みかどわざ)したまふ”は文字通り「天皇の仕事をなさった」、即ち「天皇であった」と解釈するのが良いと思います。
これらのことから、政治の責任者が厩戸皇子であったことはほぼ間違いないです。
そして推古は祭事(神事)の最高責任者であったと思われます。
この頃、祭事と政事(せいじ。まつりごと)は分担されていたと考えられます。
なお、『日本書紀』の実際の文章は添付の画像「『日本書紀』の記述」の通りです。
●●理由②
2つ目の理由は、外国の史料『隋書』東夷伝、倭国条の記載内容から、7世紀初頭の倭王は男性であり、厩戸皇子が大王だったと言えるためです。
『隋書』東夷伝、倭国条には、西暦600年当時の倭王としてアメタリシヒコという姓名とオオキミという呼称が書かれ、その後に王の妻の呼称が書かれています。
このことは、その時の倭王は男性であることを意味します。
また、西暦607年に遣隋使として隋へ行った小野妹子は隋の使者・裴世清(はいせいせい)を倭国へ連れてきましたが、裴世清の出張報告とも言うべき内容が『隋書』東夷伝、倭国条に掲載されています。
それには、倭王が女性であるとは書いてありません。
当時は、女性の王は特異な事例でした。
このことは、時の倭王は男性であること、つまり倭王は厩戸皇子であったことを意味しています。
●●理由③
3つ目の理由は、厩戸皇子が国家運営の根幹にかかわる大政策を実施していることです。
大政策は国家のトップでなければ実施できないものです。
厩戸皇子が実施した政策は沢山ありますが、その中で特に重要なものを4つ挙げますと、仏教興隆、冠位十二階の制定、十七条の憲法の制定、遣隋使です。
仏教興隆は、当時の東アジアの政治・社会情勢に後れを取らないために必要でした。
仏教を広めていない国は野蛮な国、遅れている国と見られる風潮だったのです。
冠位十二階の制定は国造りに必要な人材を登用するためのものでした。
十七条の憲法は、国家運営の基本方針の明示と、それを実行するための役人への訓示をしたのです。
遣隋使は、大陸文化を半島三国経由せずに直接導入すること、大陸の大国との国交樹立が目的でした。
これらは大変重要な政策ですから、実施責任者は国家の最高責任者、すなわち大王しか考えられません。