●第2回:疑問1の(2)
今回は、疑問1への答えの理由について、その続きを述べます。
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答は、厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったです。
●●理由④
4つ目の理由は、新羅征討軍の大将軍(国軍の総大将)に、厩戸皇子の弟の二人が立て続けに任命されていることです。
最初に、新羅征討軍の大将軍(総大将)に厩戸皇子の同母弟の来目皇子(くめのみこ)が任じられています。
そして来目皇子が病死すると、その後任には異母弟の当麻皇子(たぎまのみこ)が任じられています。
国軍の総大将のポストに弟二人を続けて就任させるということは、大王という非常に強い立場と責任感を持った人でないと出来ないでしょう。
このことからも、厩戸皇子は大王であったはずと言えます。
●●理由⑤
5つ目の理由は、大王を祭祀面で支える斎宮の酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。
厩戸皇子の異母姉)が、厩戸皇子の亡くなった年に斎宮を退任していることです。
・斎宮(さいぐう)とは
古代では、大王位に即くときは、姉妹や娘など大王の近しい親族の未婚女性が斎宮になり、政権を祭祀面から支えるのが慣習となっていました。
・酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。
用明大王の娘であり、厩戸皇子の異母姉)が斎宮に就任したのは、用明大王が即位した西暦585年で、斎宮を37年間務めました。
・585年に足掛け37年で621年、満37年で622年になりますから、酢香手姫皇女が斎宮を退任したのは西暦621年もしくは622年ということになります。
これは『日本書紀』もしくは「法隆寺金堂釈迦三像光背銘」「天寿国繍帳」の厩戸皇子の死亡年と合致します。
・このことから歴史学者の門脇禎二氏は、大王になった厩戸皇子を酢香手姫皇女が斎宮として祭祀面から支えていたと考えられると述べています。
●歴史用語の学び直し
歴史学は年々研究が進んでいますので、ここで歴史用語の学び直しをしましょう。
・皇太子・・・「皇太子」は律令制に基づく用語です。
そのため、『日本書紀』に厩戸皇子を「皇太子」と書いている箇所は7世紀末以降に書かれたことになます。(仏教学者の石井公成氏の調査です)
・摂政・・・厩戸皇子の時代には摂政(せっしょう)という地位はありませんでした。
そのため、厩戸皇子が摂政となって政治を行っていたということはありません。
『日本書紀』の記述も「録摂政(まつりごとふさねつかさど)らしめ」(いっさいの政務を執らせて)と、摂政が動詞として使われています。
・大王・・・大和朝廷の首長のことです。「天皇」の呼称が使われる前の呼称と、一般に言われています。
・天皇・・・現代の歴史学の通説では、天皇号は天武天皇もしくは持統天皇の時代に使われるようになったとされています。
しかし、推古の頃には大王と天皇が同時に使われていました。実例は天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)です。
この時には大王と天皇の2つの号に何らかの役割の違いがあったのではないか、と私は推測しています。
●疑問1に対する答えとその理由のまとめ
ここで疑問1に対する答えとその理由をまとめて再確認しましょう。
疑問1:聖徳太子は皇太子で摂政だったのか?
答:厩戸皇子(聖徳太子のこと)は大王(天皇)であったと推測されます。
理由の主なものは次の5つです。
①『日本書紀』の記載内容から、厩戸皇子は政治の責任者であり、大王(天皇)であったと言えます。
② 外国の史料『隋書』東夷伝、倭国条の記載内容から、7世紀初頭の倭王は男性であり、厩戸皇子が大王だったと言えます。
③ 厩戸皇子は国家運営の根幹にかかわる大政策を実施しているが、これらは国家のトップでなければ実施できないものです。
④ 新羅征討軍の大将軍(国軍の総大将)に、厩戸皇子の弟の二人が立て続けに任命されています。
⑤ 大王を祭祀面で支える斎宮の酢香手姫皇女(すかてひめのみこ。厩戸皇子の異母姉)が、厩戸皇子の亡くなった年に斎宮を退任しています。