奈良に誓う」から思いを馳せる和歌
本『迦陵頻伽 奈良に誓う』を読んでいるときに、文章にはあまり書かれていないのですが、そのシーンと関係のある和歌を思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。作者としては冗長性を避けるために表現をカットしたものもありますし、本歌取りのように和歌を下敷きにして文章を書いたところもあります。また本を読む人に調べていただけたら発見があって面白いかもしれないと思い、記述を省略した箇所もあります。それらについて、小説のどこの部分にどんな和歌が関係しているのかを以下に述べたいと思います。作者の独りよがりと言われるかもしれませんが、クイズ感覚で読んでみて下さい。
つきかげ
「第一章 西ノ京」に貴一の家の旅館『わだち』のラウンジが出てきます。あずさと貴一が再会する場所ですが、そこの名前が「らうんじ、つきかげ」です。西ノ京の宿、唐招提寺に繋がりを持っている宿ということから名前を「つきかげ」にしました。
「唐招提寺とつきかげ」と言えば、多くの方が會津八一の歌を思い出すのではないでしょうか。
「おほてら の まろき はしらの つきかげ を つち に ふみ つつ
もの を こそ おもへ」
會津八一の歌の特徴は三十一文字すべて平仮名表記で、言葉と言葉が分離して書かれています。そしてこの歌の碑が唐招提寺の金堂に面して左手前にあります。
「まろき はしら」は単に円柱ということではなく、円柱の中ほどが膨らんだエンタシス様式の柱であることも表わしているのでしょう。そして、八一の著『自註鹿鳴集』によれば、この歌での「つきかげ」は古来使われている月光の意味ではなく、月に照らされてできた影そのものとのことでした。
また、これは偶然というべきか、運命の糸に結ばれているというべきか、あずさが西ノ京訪問の約半年後、最初に訪れた焼物の里は信楽と伊賀焼の「丸柱」でした。
ともなふ月
「第六章 月光」の終わりのところで、「我にともなふ月……」という言葉があずさの唇から無意識に漏れるシーンがあります。これは文中にも書いてあります通り、川端康成の本『美しい日本の私』の言葉です。川端康成はこの本、正しくはこの本の元になったノーベル文学賞受賞の記念講演の冒頭で二つの歌を紹介しています。道元禅師の「春は花夏ほととぎす秋は月 冬雪さえて冷(すず)しかりけり」と、月の歌人と言われた明恵上人の「雲を出でて我にともなふ冬の月 風や身にしむ雪や冷たき」です。
この明恵上人の歌には長い詞書きがあって、歌を詠んだ時の状況を詳しく説明しています。その詞書きの末尾を転記しますと次の通りです。この詞の後に上記の歌が続きます。
「また峰の房へのぼるに、月もまた雲より出でて道を送る。峰にいたりて
禅堂に入らんとする時、月また雲を追ひ来て、向ふの峰にかくれんと
するよそほひ、人しれず月の我にともなふかと見ゆれば」
あずさは、自分の乗る電車にともなって来る中秋の名月に何を思ったでしょう。
吉城川
「第八章 講堂跡」では、奈良公園の浮雲園地を流れる吉城川(よしきがわ)の側で、貴一が「あずさが秋のひんやりした空気で寒くないだろうか」と思う場面があります。これは万葉集の次の歌が関係しています。
「我妹子(わぎもこ)に衣(ころも)春日(かすが)の宜寸川(よしきがわ)
よしもあらぬか妹が目を見む」」
(あの娘に衣を貸したいけれど、何か良い口実はないかなぁ・・・。
よし(因)は口実、きっかけの意味)
月の桂
本の後編部分『迦陵頻伽 萬世同薫』の「第三章 雫」には助詞の「ばや」について説明がなされています。芭蕉の俳句『若葉して御めの雫ぬぐはばや』の「ぬぐはばや」をどう理解すべきか、という話から「ばや」の説明を書きました。しかし、「ばや」の用法の三つ目の詳しい説明は書かれていません。これは本題から離れ過ぎるため、当初書いていた内容を削除したからです。削除された内容の概略を述べますと、以下の通りです。
「拭ばやの末尾の『ばや』という言葉の意味は大きく分けて三つあります。一つ目は、『……したいものだ』という願望を表します。二つ目は、仮定条件をあげ、下に疑問の意味を伴います。三つ目は、既定条件をあげ、下に疑問の意味を伴います。
・・・中略・・・
三番目の使い方では、古今集に壬生忠岑(みぶのただみね)という人が詠んだ、このような歌があります。『久方の月の桂も秋はなほもみぢすればやてりまさるらむ』。平安時代には月に桂の木が生えていると思われていました。歌の意味は、「秋になると、月に生えている桂の木がもみじ(黄葉)になって、月がなおさら輝いているのだろうか」というものです。ここで面白いのは、偶然でしょうが『もみぢする』という言葉ですね。もみぢする、若葉する、こういう表現がよく使われたのです」