第四章 書状(一部抜粋)
氷室神社・国立博物館のバス停でバスを降り、車に気をつけて狭い道路を渡った。奈良公園の芝生に一頭の鹿がいて、澄んだ瞳でこちらを見ている。貴一は鹿に微笑んだ。鹿が首を回して歩き去っていく。その先に立て看板があり、正倉院展と書かれていた。シンプルで機能的な美しさを持つ国立博物館新館の壁面にも正倉院展と大書された看板が掲げてある。貴一はこの展覧会を楽しみにしていた。シルクロードの終着点といわれる正倉院の御物が、年に一度公開されるのだ。レトロな欧風建築の国立博物館本館を右に見て、左手の新館に向かっていく。開催初日で開館四十分前の時間だが、入口前にはもう人の列が出来ていた。入場券を買おうとする人たちの列と、既に前売りの入場券を持っている人たちの列があり、入場券を持っている人たちの列は、入場整理のテープによって幾重にも折りたたまれたようになっていた。数百人が並んでいるように思えた。みんな早くから来ている。 貴一は前売り入場券を持っている人の列の後ろについて並び、これぐらいの人数なら、まだゆっくり観られるなと思った。ポケットから入場券を取り出して、そこに印刷されている琵琶の写真を見る。螺鈿(らでん)がちりばめられた美しい楽器である。これを一番に見に行く積りだ。今回は出品物を事前にチェックできなかったが、入場券に載っている琵琶の現物を観るだけでも満足感が得られると思った。貴一は正倉院の琵琶というだけで、是非とも観たいという気持ちになる。それは以前に観た螺鈿(らでん)紫檀(したん)五(ご)弦(げん)の琵琶がとても素晴らしかったからだ。いろいろな貝を薄く加工して琵琶にはめ込み、ラクダに乗った人や樹や鳥などの絵を描いていた。今回展示されるのは「楓(かえで)蘇芳染(すおうぞめ)螺鈿(らでん)槽(そう)琵琶(びわ)」というものだ。いつの間にか、貴一の後ろに次々と人が並んで、非常に長い列になっていた。 開館時間の二十分前に入場が始まった。あまりの人の多さに開館時間を繰り上げたのだ。人が次々と博物館へ入っていく。貴一はゾロゾロと入館していく人の後について入口を入り、階段を上って二階の展示コーナーまで来た。しかし、そこからは大勢の人がするように手前の展示物から順にゆっくり観るということはしなかった。会場をサッと見渡して歩き、「琵琶」を探した。あった。足早に近づいていく。 琵琶はガラスケースの中に、斜めに傾けて展示されている。演奏している時の角度で見せているのだろう。琵琶の弦を巻き取る部分が九十度に折れ曲がっている。茶褐色の琵琶の表面には四本の弦が張られ、撥(ばち)で弾くところにはくすんだ茶色の山水画が描かれている。見るからに中国風の絵だった。白い象の上に四人の人物が描かれていた。一人は大人で腰のところで鼓を打ち、二人の少年と思われる人が笛を吹き、もう一人は踊っている。象と四人がいる谷の周囲の木々は紅葉していて、遠くに山々があり、群れをなして飛んでいく鳥たちがいる。 琵琶の裏面には螺鈿のきれいな花模様が円形に施されている。落ち着いたこげ茶色の木の胴体に薄く加工した貝殻をはめ込み、幾つもの花の形を示している。白い貝片は葉のようでもあり、花のようでもある。白の中の橙色は間違いなく花だが、それは白い花の中にある橙色した花芯のようにも見えた。瑞雲が描かれ、花を咥えた鳥が二羽飛んでいる。螺鈿細工は素晴らしい。貴一はあらためてそう思った。螺鈿細工をされた琵琶や碁盤は正倉院展の最高展示物だ。 ・・・後略・・・