第八章 講堂跡(一部抜粋)
・・・前略・・・
「空がとても大きいわ。地面が広いせいか木や建物が低く感じられて、ゆったりと落ち着いて見えます」
あずさが奈良公園のおおらかさを喜んでくれているのを見て、貴一の心配は消えていった。
「向こうに紅葉の綺麗なところがあるから行こう」
二人は浮雲園地を北の方へ歩いて行った。
「ウワー」
感嘆の声をあずさが上げた。カエデが真っ赤に紅葉している。木は大きくなく、趣のある枝ぶりである。紅いいくつもの葉が連なって広がり、浮き上がって見える。陽があたって赤い葉が透けて光り輝いている。紅や黄色のカエデが小さな川を挟んで両側に何本もあり、重なり合ってずっと続いていた。紅葉のトンネルの下に流れている小川は、ところどころ段差のあるところで小さな滝のように水を落としている。木の根本には散ったカエデが茶や赤の色をして敷いたようになっていた。
「写真を撮らせてもらっていいかな? そこに立ってみて」
貴一はポケットに入れていた小型のカメラを出してあずさにレンズを向けた。あずさははにかむようにカエデの木の側に立った。久しぶりにレンズ越しにあずさを見て、その美しい顔が以前にも増して美しくなっていると貴一は思い、何度もシャッターを押した。
川に沿ってなだらかな斜面を上って行く。あずさは貴一についていきながら川岸のそこかしこに鹿の姿を見た。一頭の鹿のみが角を生やしているのを見て、他の鹿が角切りをされ、この鹿だけが角を切られなかったのだと気付いた。
「この川は吉城(よしき)川(がわ)といって、奈良公園でカエデが一番綺麗なところなんだ」
貴一の説明にあずさは頷き、感動の面持ちで真っ赤なもみじを観ていた。貴一は、あずさが秋のひんやりした空気で寒くないだろうかと一瞬気にかかったが、陽が射しているから大丈夫だろうと思った。橋がある。橋に書いてある名前をあずさは読んだ。
「春日野橋」
確か燈花会の時も小さな橋を渡ったような気がする。この橋だったのかとあずさは思う。あの時は夜だったから、木々がこんなに美しく紅葉するカエデだったとは想像もしなかった。橋を渡った先は広大な白い芝生の野であり、空には大仏殿の大きな屋根とふたつの輝く鴟尾が見えた。
「ここが春日野園地」
しばし二人は広い園地と青空にくっきりと建つ大きな屋根に見とれた。
・・・後略・・・