第四章 青葉(一部抜粋)

・・・前略・・・

戸を開けて中に入った。そこはゆったりとした空間の展示室であった。正面に三点の花入れが並べて陳列してある。色はほぼ黄土色で似ているが、それぞれに形が違う。左手の花入は四角い枡が三つ縦に積み上げられた形をしているが、その枡の積み上げが下から二つ目では左に振れ、三つ目では右に寄って、全体では中心線が真っ直ぐ通っていた。真ん中の花入はスカートをはいた女性のような形をしていた。下半分が太い円筒であり、その上は細めの胴になり、上部が広がって頭のようである。両側に付いた花入の耳は中に穴があり、腰に手を当てた姿そのものだった。右側のものはずんどうな形である。穴のない平たい四角の耳付花入である。上から下までほとんど太さが変わらない無骨な感じが、えもいわれぬ魅力を示していた。すごい三点だと思った。花入を長いこと見つめていたが、ふとその脇に小さな文字の書が表装されて額に入れられてあるのに気が付いた。楷書に近い行書体で書いてあり、ほとんどつまらずに読むことが出来た。

「日本の焼きものの花生けのなかで、もっとも位が高いとし、

また価ひも高い、古伊賀(およそ十五、六世紀)は水に濡らして、

はじめて目ざめるように、美しい生色を放ちます。

             …川端康成著『美しい日本の私』より」

あずさは驚いた。恥ずかしくもあった。曲がりなりにも陶器に関する仕事に就きながら、川端康成が伊賀焼の古いものを最高位の焼きものと書いていることを今まで知らなかった。『美しい日本の私』とは確かノーベル賞授賞式での記念講演の内容だったはずである。タイトルは知っていたが、これまで読んだことがなかった。本屋さんで探して早速読んでみようと思った。加奈にも川端康成と伊賀焼のことを話してみよう、『美しい日本の私』についても聞いてみようと思った。そんなことを思っているうちに、ふと疑問を感じた。なぜ、ここに展示してある花入には花が生けてないのだろう。水に濡らすと目ざめるような美しい生色を放つというのなら、水を入れ、花を生けたら良いのに。今だったら生ける花は何だろう。ちょっと早いかもしれないが白いテッセンなどが面白いかもしれない。水を含んで生き生き呼吸をしている古伊賀の黄土色と黒い灰釉の花入、そこに生けられた真っ白なテッセンがひっそりと、しかし凛として咲いている。あずさは自分が花を生けている姿をイメージして、窯元の展示方法の意図に気付いた。窯元は、顧客がこの花入にどのような花を生け、どのようにこの花入を活かしてくれるのか、それを問い、投げかけているに違いない。

・・・中略・・・

宸殿の間に入った瞬間、あずさはアッと息を呑んだ。一歩も動けなくなった。五十畳もあろうかという広い畳敷きの部屋の正面右側から左側面に向かって大きな海の絵が描かれている。ドドーッという波の音が聞こえてきたような気がした。多くの参拝者が襖絵の前に置かれた仕切りの黄色い竹のこちら側に座って絵を観ている。一方で、何人もの人が仕切りの竹に沿って列を成し、膝をついて左手へ進んでいる。貴一が右手にある最初の四枚組みの襖絵を前に、少し下がって座った。あずさもそれに倣った。座ると視線が上の方に向かい襖絵が大きく思えた。二人の前を、膝を折った参拝者が中央での焼香のために次々と通っていくが、気になることはなかった。

人の向こうに雄大な自然があった。四枚の襖には濃い青色の海が全面に描かれ、右手上方から白く大きな波頭が左手方向へと動いて来る。自分の方に波が激しく迫ってくるようだ。強い風の音が絶え間なく、果てしなく聞こえる。左隣の二枚組の襖には、心持左に傾いた岩が海中から突き出ていて、波があたって砕けた後の絵が描かれている。岩からは白い泡になって潮が流れ落ちる。海中に立つ大きな岩の頂には松が一本生えていて、横なぐりの激しい風を受け、常緑の枝をこれ以上曲がらないほど左に傾かせている。しかし飛ばされない。根ががっちり岩を掴んでいる。岩の下では波が砕け落ち、白く幾重にも泡立っている。素晴らしい、凄い迫力とあずさは思った。海に呑み込まれない、海に抗する、そんな情景だった。さらに左手の方を見る。襖がない部分があり、その向こうには平たいが頑丈な岩が描かれ、岩の上から白い海水が幾筋にもなって流れ落ちている。そして波は多少小さくなりながらも岩を越えて左へ左へと進んで行く。柱を中にして襖が直角に左へ折れる。波はその折れた襖にも寄せて行っている。やがて波はさざ波になって砂浜に近づき、静かに寄せては返していた。

貴一が立ち上がり、あずさと一緒に歩いて襖のない所の前まで行った。そして今度は、できるだけ仕切りの竹に近いところへ行き、あずさを自分の右手すぐ前に座らせた。あずさが座って目を上げると、目の前に本でしか見たことがなかった鑑真和上坐像があった。大きな黒い艶々した厨子の中は、薄い青ねずみ色の垂れ幕が左右に開かれ、適度な薄暗がりとなっていて、和上は盲目の目をつぶって静かに座っていた。高僧がそこに生きて座禅を組んでいるようだ。剃ってある頭が大きい。閉じた大きな両目が落ち窪んでいて痛々しい。頬の線は顎が強く張り、胸元は肋骨が見えて老人の姿だががっちりした体である。衣は時を経た朱のものを着ていて、上に袈裟だろうか、右肩袖をぬいて黒い衣をかけている。膝の前に組んだ指が太い。静かだ。そこに鑑真とあずさの二人だけがいて、何も動かない。時が止まったようだ。やがて和上のゆっくりした呼吸があずさの呼吸になっていく。優しさに包まれた強さが伝わって来た。

・・・中略・・・

あずさは貴一の後について東室を出た。外は明るかった。立ちくらみをしたような気がしたのは明るさのためではなかった。鑑真和上は十二年もかかって日本へ来たのか。何度も何度も挑戦して日本へ来たのか。船が難破したということと盲目になったということは知っていた。しかしベトナム近くまで漂流して、そこから陸路を盲目の身で上海近くまで帰ってきたとは知らなかった。そしてまた日本渡航に挑戦するとは、なんという精神力だろう。あずさは大きな衝撃を受けていた。不撓(ふとう)不屈(ふくつ)という言葉がある、初志貫徹という言葉も知っている。しかし、鑑真和上ほどこれを実践した人はいないのではないだろうか。自分はその万分の一でも頑張れるだろうかと自問していた。