第五章 浮雲園地(一部抜粋)

・・・前略・・・

宿泊出張用のビジネスバッグに手帳をしまい、代わって葉書を取り出した。七月に送られて来た大和路便りで、葉書の片面は例によって奈良の写真である。写真をまじまじと見る。夜の帳の中に無数の灯りが点されて、川のように連なっている。真ん中はゆったりと湾曲した道で、その両側にたくさんの黄色い灯りが置かれている。一群の灯りの隣には黒い空白地帯があって、その先にはまた幾重にも光の川が流れている。貴一の撮った写真はどれを見ても美しい。行ってみたい、見てみたいと旅心を誘われるのだった。写真の下の説明書きには「なら燈(とう)花会(かえ)……奈良の夜にきらめく光の雲海。八月六日から十五日まで開催」と書いてある。明日の会議は午前十一時からであり、明朝に東京を発てば間に合うものだった。しかし、燈花会を少しでも見てみたかったので、自費で前泊することにした。大阪のビジネスホテルに宿泊予約を入れ、到着は夜遅くなると伝えた。今回は貴一に奈良へ行くとは連絡しなかった。貴一もお客様の世話などでいろいろと忙しいだろうし、幻想的に揺らめく灯りを一人で眺めてみたいと思ったからである。

・・・中略・・・

あずさは立ち上がり、灯りの海の中から出て、借りたマッチをスタッフに返した。灯りが置いてない草地の道をゆっくり歩きながら、あらためて周りを見る。あちこちでフラッシュがたかれている。小さな子供が点火器でろうそくに火を点けようとしている姿を父親が写真を撮っている。浴衣姿の三人組の女性が仲良く灯りの海の中で写真撮影のポーズをしている。灯りの中で紺地や白地の浴衣が映える。帯の後ろに差し込んだ団扇が見える。夏の夜のきれいなイベントにボーイフレンドに誘われて来た女性がいる。皆嬉しそうだ。夏の夜、こんな素敵な場所に一人で来て間違ったかしらと、少しだけあずさは思った。貴一に連絡すれば見所を案内してくれただろう。でも、奈良の揺らめく灯りを一人で見てみたかったのだから、これで良いのだと思った。

・・・中略・・・

音に魅せられて演奏している場所へ行こうとした。途中に小川のようなものがあって渡れず、橋のある所まで回らなければならなかった。道沿いに何本かの木々があった。木の下で恋人同士が手をつなぎ何も言わずに一面の灯りを見ている。同じ場所で同じ美しいものを見、心を通わせている。幸せそうな顔だ。あずさは胸苦しくなった。夏のモヤーッとした大気に、ゆらゆらと輝く無数の灯り。日ごろ仕事に熱中しているあずさにしても、この美しさと周りの幸福感は魅惑的だった。逃げ出したいような、身をまかせたいような、そんな二つの気持ちが微妙に行き交った。

・・・後略・・・